第347回

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   竹成 村部源之助     文 郷土史家 佐々木 一

竹成共同墓地にある二代目玄之助の墓

竹成共同墓地にある二代目玄之助の墓
 
村部源之助は、天保十年(1839)八月十日、竹成村父玄之助の次男に生まれました。 村部家は竹成村で医業を営み、秘伝の漢法薬「鎮驚丸」(ちんきょうがん)を自家で調剤して、頭痛、風邪、 腹痛の妙薬として竹成の村人に好評でありました。
 ここで村部家の家柄、家系について申し述べますに、まず源之助の祖父玄仲は、 通称考安といい字名は伯子(はくし)、号は蘭芳軒(らんぼうけん)と名乗っていました。 生れは明和二年(1765)海老原村で、、医術、儒学を学び、殊に漢方薬の調剤に優れ、近隣の村に名が知られていました。 寛政七年(1795)ごろ、西郊の竹成村から招かれて、海老原村から竹成へ移り住みました。
 竹成村の庄屋、鈴木氏の厚遇を得て、医業の傍ら家塾を開き、竹成村の児童に読み書きを教えました。 天保八年(1837)十月二日老衰して亡くなりました。行年七十三歳、法名を「釈 浄信」と送り名して竹成墓地へ葬むり、その妻は弘化二年(1845)四月二十二日に後を追い病没して「釈 妙遵(みょうじゅん)」と送り名して、夫の玄仲の傍らに葬られました。
 村部家の二代目、玄之助は享和三年(1803)に父玄仲三十八歳のとき竹成に生まれました。 父を助けて医業と寺小屋を継ぎ、村の児童に読み書きを教えました。 玄之助はあざ名は子昌(ししょう)、号を竹生(ちくぶ)軒と名乗り、竹成では村人や寺小屋の児童に親しまれて、 晩年は村の長老として敬慕(けいぼ)の人でありました。慶応三年(1867)行年六十五歳で死没。送り名を釈親芳として竹成墓地に葬り、その墓碑には、「手習児童連中これを建つ」と刻まれています。
 そして三世が源之助で、村部家も竹成で三代目となりました。 医者、学門の家として村人から敬愛される家となっていました。 源之助十歳になって保々村の庄屋であり家塾を開いていた、天春九郎右衛門(豊水) の許へ通い儒学を初歩から学び、また十二歳になった嘉永三年(1850)こんどは有名な菰野藩の儒学者、南川定軒(ていけん)先生の家塾へ入門して高度の漢学を修めました。安政四年(1857)定軒先生が亡くなり折りから黒船来航して、討幕、王政復古の上下大騒動のときでありました。
 明治四年忍藩は大矢知代官所内に「興譲学校」を設立。初代の教頭に大鐘の浄円寺の大賀賢励師が就任して、教員三十三名が任命され、その中にわが村部源之助も講師の一員に選び出されました。興譲学校の生徒は、忍藩領下の員弁郡、朝明郡、三重郡、飯南郡の子弟が入学して、学生百五十名、入寮生三六名が勉強に励みました。
 明治6年(1873)学制発布になり、竹成村の鈴木又市は、他村に先がけして民家を借り、竹成小学校を起こしました。この学校の先生に、興譲学校から源之助が呼び戻され、児童の教育に当たりました。竹成小学校は明治九年十二月に伊勢暴動の焼打ちに遭い、同十二年に宇賀村の茶部屋(三十二坪)を求めて移築し、教室に当てました。同二十二年に竹成村と永井村が合併して竹永村となり、新しく竹成の地に校地を求め、先の茶部屋を売却して七二坪の新校舎を建築し、菰野学校の教頭の桑原重隆氏を初代の校長に迎えました。そして引き続き教師をしていた竹成の村部源之助先生は、同二十七年(1894)十月五日行年五十六歳で病没せられました。

  初代 玄仲
    二代 玄之助
       三代 源之助