第348回

バックナンバー

   三蔵玄奘法師     文 郷土史家 佐々木 一

竹成共同墓地にある二代目玄之助の墓

竹成五百羅漢の三蔵玄奘法師の像
 竹成五百羅漢の東正面入口の、地蔵菩薩像のその後ろに、重い笈(きゅう)を背負われて、 前かがみになっている石像が、この三蔵玄奘(げんじょう)法師のお姿であります。 三蔵法師とは、仏教の経、律、論に深く通じられた僧位の官名で、玄奘が実名であります。
 玄奘法師は中国河南省洛陽の出身の人で、唐の皇帝高宗の命を受けて、また、仏教の経本の原典を受け、それを持ち帰り、翻訳して研究したいとの願いもあって、二十七歳のとき(629)に釈迦の生れられたインドへ、唐の都長安を出発しました。
  有名なシルク、ロードの敦煌
(とんこう)、玉門関(ぎょくもんかん)を出て高昌からカラシヤールー、クチヤから天山山脈の南を通り、アコスから天山山脈の峠を越えて、イシク湖の南へ出て、破葉(スイヤーブ)城へ、そしてタラス河のほとりを西へ、そしてウスベキスタン国はもう中央アジアです。タシケントから南下してサマルカンド。なお山地と砂漠の中を下ってワージラバート。ここからヒンドウークシ山脈の天険そして石窟で有名なバーミアンの石仏を拝して、カイバー峠を越えるとインドへ。スリナガルからはヒマラヤ山脈を北に仰ぎ、ただ東へと道を取り、そして目的地のルンビニー、やっと釈迦生誕地へたどり着きました。
  玄奘は、釈迦生誕の地に足を踏み入れて、その時の様子を「釈迦が水浴する池があって、 水は清く鏡のように、色とりどりの花は咲き乱れて、その北側に無憂華
(むゆうげ)の樹があるが枯れている。 ここが菩薩が降誕された所である」と「大唐西域記」に記しています。
  そして釈迦の入滅地のクシナガラ。サルナートの鹿野苑。ラージヤグリハの王舎城、成道地のブッダガヤを訪ねて、ガンジス川に沿いベルガル湾へ出て、それから湾沿いにインド半島を南下して、セイロン島近くのネロールまで行き、デカン高原を横切って、半島の西側へ出て西ガーツ山脈の東麓を北上して、インダス河口のカラチまで行き、往路越えたカイバ峠でインドを出ました。帰路はカーブルからバーナバートへ出て、天山南路を通りタクラマン砂漠の西の果てカシュガルから、砂漠の荒漠地を北に見て西から東へと向かい、楼蘭
(ろうらん)から出発地点の敦煌へ無事到着、ここまでくれば自国の唐の国で安心。玄奘は六二九年に唐の長安を出て六四五年に帰国、その間十六年間を要しました。持ち帰った経文は六五七部にのぼる大冊で、時の唐の高宗皇帝は喜び、翻訳院を建立して待ちのぞみ、玄奘は弟子らと共にインドから請来の仏典の漢訳に着手して、大般若経百巻をはじめ七六部、一三四七巻にのぼるものでありました。玄奘は六六四年に六二歳で入滅して、大慈恩寺に葬られました。
  そののち明代(1580)に、呉承恩が三蔵玄奘法師のインド旅行記を「西遊記」と名づけて、三蔵法師のお供に孫悟空、猪八戒、沙梧浄を従えて国の異なるしかも様々の妖魔の障害を排してインドに至り、大乗経典を得て帰るという物語りに作りました。その西遊記は日本にも伝わり、これによって三蔵法師の苦難の大旅行が広く知られる様になりました。
  この三蔵玄奘法師が唐の国から遠い天笠まで大旅行を決行した時代は、 わが国では大和時代の孝徳天皇(645〜654)の時、奈良から智通、智達の二人の僧が唐へ渡り、大慈恩寺で玄奘から直接、法相宗の教えを受けております。