第349回

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   田光 鋳物師の活動     文 郷土史家 佐々木 一

亀山市本町浄源寺の半鐘

亀山市本町浄源寺の半鐘
 江戸期に入り、家康の仏教庇護もあって、真宗の蓮如以後に発生した村落の惣道場であった念仏道場が、 寺院へと発展の動向を示し、殊に真宗寺院では山門、本堂、鐘楼の建築様式が整ってくると、 それにしたがい梵鐘造りが盛んとなってきました。
 わが町の田光においても八風街道の要衝に当り、北勢地方に寺院創建の気運に呼応して、 江戸初期に鋳造がはじまりました。
田光の鋳物師は、
 諸岡太郎左衛門―系統
 天猫五郎左衛門―系統
 松永清左衛門―系統
の三家があって、梵鐘、半鐘、鍋造りの鋳物業に励んでおりました。 この鋳物師の遠祖は、河内国丹南郡我孫子
(あびこ)(大阪市住吉区我孫子町)あたりから大和、 近江国を経て八風峠を越え北伊勢の田光へ、鋳物造りの技術を携えて移り来たったものと思われます。
 そして中世から江戸初期には、近くの員弁郡治田村に治田鉱山があって銅鉱を産出、 そこから梵鐘の材料を容易に得られたこと、また銅を溶解するための燃料、鍛治屋炭も裏の田光山で赤松を焼いて、 良質の木炭を入手出来ることなどの好条件が調っていました。
 そしてその鋳造場は、人家を避けて田光と江平集落の中ほど、字名「金井」
(かない)あたりで地面に穴を掘り、 穴の中に鋳型を組み、溶解した銅を流し込む方法で鋳造していました。鋳物師は居職と出職がありました。
遠隔地から梵鐘の注文を受けたときは、鋳型と炉と鞴(ふいご)、こしき、湯桶の鋳造用具と、 銅鉱、木炭などの材料を荷車か馬の背に乗せて、現地へ運びました。 その道中は、菊のご紋のついた勅許の大幟をかついで「勅許御鋳物師」の威厳を誇って通りました。 それは現地で鋳込み、重い梵鐘を運ぶ手間をはぶきました。
 田光で鋳造の梵鐘は三〇個、半鐘は三六個。これは記録によるもので、これらの田光製の鐘は、 先の太平洋戦争の終戦前に徴発されて、四日市市の石原産業で溶解され、砲弾の材料になりました。 菰野町域で現在残るものは、浄正寺(音羽)と大円寺(下村)の半鐘が二個だけとなりました。
 その強制徴用に免れて残り現在も鐘楼にあって時を告げて活動している梵鐘は、 いなべ市北勢町東村の円福寺、藤原町鼎の安顕寺、大安町丹生
(にゅう)川の真正寺、四日市市市場町の大樹寺、 鈴鹿市大久保の法雲寺に見られます。
 また一方半鐘は、梵鐘の半分か三分の一位の大きさ、重量で、本堂の軒先あたりに吊るされて、 法要のはじまる時などの合図に鳴らされました。なお幕末から明治になると、村々に消防用の火の見櫓
(やぐら)が設けられ、 火事、水害などの防災用に使われました。
 田光の鋳物師へ梵鐘、半鐘の注文を受けたその分布の範囲は、北は岐阜県上石津町多羅の精泰寺から旧員弁郡、 朝明郡、鈴鹿郡一帯で、南の端は現亀山市白木の大善寺と、本町の浄源寺の二箇寺があります。


亀山市本町、浄源寺、浄土宗知恩院派 大きさ鐘身52センチ、口径26.5センチ
銘文
 亀山 茶屋町 文政七(1824)甲申 十二月吉祥日
 浄源庵什物 定念代 朝明郡田光住 天明藤三郎

 この浄源寺の半鐘は、本堂の軒先にあって、近ごろ確認されたものであります。