第350回

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   三滝川の氾濫と霞堤防     文 郷土史家 佐々木 一

吉沢に残る霞堤防
吉沢に残る霞堤防

 明治二十九年(1896)は、六月の梅雨に雨の降り続く日が多く、それが八月一日の菰野のお盆過ぎに入ると、台風の来襲も多くありました。案じられていた二百十日過ぎの九月五日の夜になって、東の空に黒雲横たわり、風に雨がついて、天の底がぬけた様に降りそそぎました。六日の朝、湯の山駅西の神明橋西の湯林の一抱えもある赤松が、見る間に流されて、その流木が流れを塞ぎ、三滝川と鳥井戸川の合流点では、海ほど濁流が溢れ出て、字募(つのり)の堤防が切れ、その鉄砲水は新道(しんみち)、大刎(おおはね)の林の中を川原にして、地蔵の集落へと迫りました。その流れは猿尾という小規模な内堤防でようやく食い止められ、新林、柳林の低地を流して霞堤防から三滝川本流へ帰しました。上(かみ)から流れ出た多数の流木は庄部橋の脚にも掛かり、橋詰の堤を破りました。
 庄部橋の下(しも)にある吉沢地の一色越え(徒渉(としょう)点)と西条越えとの間には、江戸時代からの堅固な霞堤防が築かれていて、これは洪水も破れず真東の黒田越えへと流れました。もし破られれば福村、吉沢、神森へと影響を与える本流は、この堤とそれを守る厳重な警戒に大決壊は食い止められました。
 一方、南の金渓川は、金谷(かんだに)に石灰を焼く窯がいくつもあって、焼子人夫の泊まり小屋も鉄砲水で押し流され、山田の山神橋西の百姓家も流れました。
 当時、金渓川には堀切、山の神、曽我、陽明、神田、青橋とたくさんの土橋が架かっていましたが、橋という橋は全部流れてしまいました。
 さて、この九月六日の台風の跡の復旧には、西菰野地区に『大風水に付臨時必要物買入帳』などの九冊の覚帳が残っていますが、特に三滝川の堤防決壊個所は、字募、新道の西から東へと一キロ余りの長い距離であり、西、中菰野の村人は総動員で、その復旧工事にあたりました。中の一冊に「子供組割当帳」とあります。竹を割り編んだ細長い「蛇籠(じゃかご)」は、堤防の基になりますが、これを川の流れに添い、丁度、蛇の寝た様に斜めに伏せて、籠の中に拳大の石を入れます。石を拾い入れるのは人海戦術で、子供組や女子軍も村中総出で手伝います。この蛇籠を積みあげたものが霞堤防で、これが甲斐の釜無川の治水のために、武田信玄が編み出した信玄堤です。
 川の提によく竹が植えてあるのは、蛇籠の材料にするためで、年寄りは竹を伐り割って蛇籠を編み、若衆、壮年者は大石を動かし杭を打ち、女子は提の上に柳を植え、それこそ村中総掛りで堤防の復旧工事に努めました。この霞堤防のおかげで、その後猿尾まで水の押し寄せて来るのは解消されました。
 この明治二十九年の大洪水では、現在の大羽根園、その北の運動公園から鳥井戸川の合流点まで、一面の真白の川原になり、砂の大三角州が出来ました。
 その六十五年後の昭和三十六年の雲母峰集中豪雨のときは、三滝川の堤防の決壊は避けられましたが、雲母峰に舌状の梅雨前線が襲い、近鉄線路以南の水田も真白の海になり、大羽根の松林も遊水池となりました。このときも地蔵集落の西側の猿尾で辛うじて食い止め、浸水は免れましたが、金渓川の橋は大方流失しました。現在は大羽根も、また分木(ぶぎ)、高原(こばら)の水田も住宅地に変わり、遊水池がなくなりました。天災は忘れたころにやって来ます。地震も怖いが水も恐い。