第351回

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   竹成の和敬社     文 郷土史家 佐々木 一

五百羅漢前の清掃奉仕作業
大正14年(1925)8月22日
五百羅漢前の清掃奉仕作業

  明治新政府は維新後の明治五年(1872)いち早く学制を公布しました。竹成村ではこれに呼応して鈴木又市、村部源之助らの努力で竹成学校が開かれました。そして同二十三年(1890)十月に、明治天皇は教育勅語を発布されて、国民道徳の根源と教育の基本理念を示されました。
 江戸期、そして明治のはじめの頃までは、村に宮守、若者連という青年の組織があって、竹成村も氏神の八坂神社の祭事一切を宮守が奉仕していました。村人の心の寄りどころである神事祭事を司り、そのほか村に火事、洪水、地震などの災害を防ぎ守る役目をも、宮守が勤めておりました。
 こうした宮守の団体組織は、掟(おきて)決めごともなく、長い間の村の慣習により引継ぎ伝承されて来たものでした。それが明治のご維新を迎え、新しい文明開化のご時勢の当来で、昔から伝わる古い習慣に従って来たが、新しく考え直そうでないかの意見が出されました。
 それは明治二十三年の秋の八坂神社の収穫感謝祭の頃で、その意見の発議の人々は、山下嘉六、内田七右衛門、松岡源四郎、松岡銀蔵の四人で、この人らは、かつて宮守連中の年寄役を勤めて、その活動の中心的な大先輩でした。そこで古い宮守の名を廃して、新しい時代に即応した、青年の集いにふさわしい「和敬(わきょう)社」に命名することになりました。この名の「和敬」は、儒教の五経の一つ「礼記」から取った「やわらぎうやまう」という意味であります。
 この青年の団体の「和敬社」が発足した明治二十三年(1890)から三十五年後の大正十四年(1925)に「和敬社」の精神、理念の検討整備をすることになりました。それは大切な根本精神として
 「和哀敬愛して相互に親善を尽し世の善美を計るを似て本社の生命精神とする」と謳いあげています。次は規約を設け「和敬社」」の社員は十五歳から二十五歳と、役員は社長と副社長を置くと定めています。「和敬会」の事業としては、
 一、春秋の二季に大法要を行う
 一、毎月一日、十五日には例会法要を行う
 一、毎年十一月二十四日報思講を勤める
 一、毎年十一月十五日高田本山に参詣する
 一、奉仕作業は青年団供楽部、寺院、五百羅漢、神社境内、公会所の除草、庭の砂入れ掃除を行う。

 そして事業の内容は、春季の大法要は処女会員と合同して供養を行い、七十歳以上の老人を招待する。また秋季の法要は、在郷軍人と合同して戦病死者の追弔法会を行い遺族を招きこれを慰める。
 毎月一日、十五日の例会は午後七時願行寺に参集、議会を開き正信偈、和讃を読誦して念仏説教を聴聞して九時解散する。
 報恩講は秋の十一月二十四日社員の家を宿に午後一時僧侶を迎え、社員全員参集して勤行(ごんぎょう)、三時に終了非時の食事をなす。
 寺院と神社の境内、五百羅漢境内、竹成米直右衛門碑、公会所、青年倶楽部前の砂入れは毎年七月末日、十二月末日の二回これを行う。
 と定めておりました。この和敬社は現在も継承、毎月の第一日曜日の午後七時に願行寺に参集、念仏の勤行と法話の聴聞を行っています。