第354回

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  但馬牛のふるさとを訪ねて     文 郷土史家 佐々木 一

林本さんの但馬牛 林本さんの但馬牛。昔は菰野の農家でもこのように牛が飼育されていました。

 昔の北伊勢地方の農家では門口の敷居をまたぐと、その右手に牛の厩(まや)があって、ませ棒の間から首を出して「もう」と一声鳴いて迎えてくれました。
  菰野あたりの農家で飼われていた牛は、兵庫県の但馬地方で生まれて、それは性質も穏順で賢く力持ちでした。中国山地の山村で生まれた子牛は紀伊国の田辺あたりへ買われていき、紀州の水を飲み、そして叺(かます)に土を入れてそれを引っぱって田を鋤(す)くことを教えられ、二歳になって、伊勢へくるという決められたコースがありました。
  牛は草食動物ですので、その餌は山野に自生する草を刈って食べさせ、冬は藁(わら)や乾草などを餌として与えてるだけで飼い易い家畜です。田畑の耕作のほか、重い荷物や人も、その背中に鞍を置いて乗せ運ぶことにも使われて、農家には無くてはならない身近な仲間でした。また牛は、学問の神、天神様のお使いといい、大切にして住宅の中でも日当たりのよい南東に厩を設けて、その給飼台は、炊事場の向かい牛の顔の見える処に設けてありました。台所では、茶碗、食器、鍋をお湯で洗ったものを桶に入れて、それに塩を加え牛に飲ませ、残りのものも全部牛が食べてくれました。
  その野良仕事を助け毎日の生活と共にして来た牛が、人との生活に別れる時がやってきました。それは戦後の昭和三十年代、耕耘機(こううんき)という鋼鉄で作られた自ら動くものが出現、みるみる内にトラクターに変わり機械化になって、牛の仕事が奪われてしまいました。
  お金のいらないただの畦草(あぜくさ)を食べて、しかも厩の中で自給肥料を製造して、助けてくれた牛と人が別れて、かれこれ40年ばかり経ちました。その牛に会いたくなり顔も見たくなりました。そこで、但馬牛の故郷、兵庫県の美方(みかた)、朝来(あさご)、養父(やぶ)郡内の農家を訪ねることにしました。それには事前に兵庫県畜産会、県立但馬牛博物館の親切なお手引きを仰ぎ、この9月1日、2日に但馬へ行って参りました。
  まず、中国道の福崎インターから北へ播但道を生野鉱山、朝来、養父、八鹿(ようか)、村岡、美方へとのぼり、美方の神場(かんば)・林本徳江さんを訪ねました。この日は晴天で、稲刈りをはじめてみえて、その手を休めて牛の厩へ案内してもらいました。厩はお勝手の続きの日当たりのよい部屋で、親と子の二頭が揃って顔を見せ、大きなつぶらな瞳を輝かせて迎えてくれました。
  飼主のこの家のお母さんの顔を見て長い舌を出し大きい目を細めて甘えます。餌は乾草と青草を刻んで箱に入れられて、お乳の出のよいように麩米糠(ふすまこめぬか)も入れてもらってあります。母牛は同じ美方の神水で平成15年2月4日生まれの四歳七カ月の成牛です。可愛い子牛は四月生まれの五カ月目でまだお乳の飲みたいときです。
  この母牛は名を「さつま6号」といい、全国和牛登録協会兵庫支部の審査を受けて、血統證のついた登録牛で、角前は八の字に開き、目は大きく穏やかで、顔と首のつりあいもよく背筋は真直ぐ通り毛肌も良ろしく但馬牛の資質を備えた名牛です。その子牛も母牛の血を受けてこの秋の子牛の共進会に出て審査を受ける予定です。
  林本徳江さんの神場の里は、標高四百メートル二十二戸で、そのうち和牛の飼育農家は四戸ですが一頭飼育はこの徳江さんのお家だけだそうです。可愛がった子牛がやがて家を出ていく時は、赤いお餅をついて祝い、一口食べさせて首にお餅とお守りをつけて送り出します、とそっと話されました。