第355回

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  久留美庄太郎翁     文 郷土史家 佐々木 一

急な斜面での植林作業 急な斜面での植林作業。写真は昭和52年に撮影されたもので、多くの女性が参加しています。

 庄太郎は文久二年(1862)一月十日、東菰野村農業利兵衛の長男に生まれました。家は菰野城の北門を出た川原町通りの辻の近くにあり、代々農を営み田畑一町二反六畝、宅地三七三坪、山林一八○○坪を有する農家でありました。  
  庄太郎は近くの如来寺和尚に初歩の読み書きの手ほどきを受け、明治二年藩校顕道館、そして菰野学校で学びました。当時川原町には藩校教官の藤牧約(つかぬ)、川村忍(しのぶ)らが住み、余暇に漢学の教えも受けていました。二十一歳のとき川原町の庄吉の娘、ゆきを妻に迎え家を継ぎました。  
 明治十八年河村高美戸長の許しを得て、東菰野地内に石灰の焼窯を五ヶ所設け、共同で消石灰を製造して田畑の肥料としました。また、裏を流れる三滝川堤防の大羽根裏から川原町裏の補強にも平素から気を配り、なお外堤防から内堤防の間の御用湯林の松林の保護にも勤めました。  
 そして十二月七日の山の神から山の口が開くと、父と共に西山の三の瀬、如来谷へ薪や柴刈りに行きました。西山、すなわち「菰野村共有惣山」のこと。明治ご維新のこの方、惣山の利用の方法など、新しく人々の沙汰となりました。  
  慶長五年(1600)土方雄氏(かつうじ)が菰野城へ就封した際に、御在所、鎌ヶ岳の山の下に広がる八百町歩の山地は「昔からこの麓に住む村人の共有の山である」と認めた一札を「こもの三郷百姓共へ」宛で入れてあり、ただし藩士の柴刈場は「熊ヶ倉」の一谷を藩有として定められていました。  
 共有惣山の管理運営は、三菰野の庄屋が立会いで協議の上行われていましたが、維新後は評議員が村から選ばれて執行にあたりました。  
  江戸期、雲母(きらら)山の東面の見付けは萱(かや)山として、上の青木ヶ平(だいら)が西こもの、中の次郎ヶ平が中こもの、下の太郎ヶ平が東こものと分けられて、萱葺き屋根の用に刈りとられ、一方蛇不老(じゃぶろう)山は頂上から下まで草山にして田畑の緑肥に利用されていました。この雲母、蛇不老山は石灰分を含む、よく肥えた地質でした。  
 共有惣山の役員のなかでも、天保生れの薮下五郎と辻好頴(よしひで)は、萱山と草山を植林地に改植を熱心に提案して、その企画を進めていました。庄太郎は二人の先輩の意を汲み、実施の方法を考え、まず植林地の土質環境を調べ高地に檜、低地に杉をと適地を勘案して苗作りを実行しました。はじめてのことであり多量の苗を購入する資金が皆無で、農家を回り苗作りの指導に当りました。  
 薮下、辻の二人は、湯の山谷の自然林風致の保護と道路橋梁の改修と惣山全体の企画運営管理に当り、庄太郎は現地で植林、下草刈りの作業奉仕の村人の先頭に立ち、山鍬を打ち振り汗を流しました。  
  そして庄太郎は、常に懐深く短刀を忍ばせ山へ入りました。それは、元和の昔、江野で千草村と大争論が起き菰野村で七人の犠牲者のあったことを憶い、先人の苦衷を肝に銘じ、己(おのれ)が「山天狗」になるを戒めるために懐刀(ふところがたな)をしていたといいます。  
 大正十三年、湯の山沿道筋の山を宅地に売却して商店、旅館を誘致して発展策との開発謀議が起き、その金を各戸に分配するの賛否を問う論に「青山を金に替えられるか」と、庄太郎は強硬に主張して守り抜きました。昭和三十二年六月五日、九十六歳で大往生を遂げました。