第357回

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  町勧業の先駆者  村田 弘     文 郷土史家 佐々木 一
町勧業の先駆者 村田 弘氏  戦時中の食料増産運動と、戦後の農地改革と農業の近代化、基盤整備事業に身を粉にして尽くされた人、村田弘(むらたひろむ) 氏を紹介いたします。氏は大正二年(1913)二月二十六日菰野村神森に生まれました。生家の西にある賀保寺は、室町前期の永享二年(1430)の銘文のある鰐口が残り、その裏の春日神社と合せて神仏混交の信仰の跡を伝える由緒のあるお寺でした。その寺跡のある門前には、萱葺きの水車小屋があり、水車を回す小川が流れ、川には鮒、諸子 (もろこ)が泳ぎ、蛍が飛びかう、のどかな所でした。  
 村田弘氏は昭和五年三月県立河原田農学校を卒業して同年四月菰野町役場に勤務、農業技術員兼勧業係として奉職しました。当時の菰野町は昭和三年十月に町制を施行、新しく菰野町となって初代の町長は辻正道氏でありました。
辻町長は新町を発足させると翌五年の七月に退任されました。辻氏は東京大学出の歌人であり、給料返上無給の町長でありました。その跡を継いだ黒沢隆吉町長は、書記からたたきあげで町政の裏表に通じた苦労人でした。黒沢家は代々菰野藩の馬術師範の家で、隆吉町長は痩躯長身で見るからに古武士の風格があり、県下に並びなき名町長と有名でした。
  当時の役場の陣容は町長、助役、収入役の下に戸籍、兵事、教育、勧業衛生、庶務、経理、土木、会計の係が置かれ、兼務で事を処理していました。なかでも勧業係の村田氏は農会や森林組合の事務、蚕業指導員・茶業指導員・米穀検査員・木炭検査員などの掌握と調整にあたっていました。
   昭和六年に日支事変が起きると役場の兵事係は徴兵召集の兵隊を送り出すことで忙しくなり、その留守家庭の援護、そして食糧増産運動が叫ばれて役場の勧業係は督励に大忙し。同十八年の春は猪の群れが山から出て来て甘藷畑を荒らすので茶屋の上火除野に猪の棚を設けて、その食害を守るのも勧業係の仕事でした。そして翌十九年には春から降雨がなくて田植の出来ない農家が多く、用水の確保節水の励行のなど昼夜休みなく、その手当に奔走しました。この当時は激しい空爆下の食糧増産の運動で、食糧不足のために菰野小学校の校庭も耕して甘藷を植付けたほどでした。

 同二十年の八月太平洋戦争も終結、こんどはマッカーサー司令部の命令で農地改革の実施と 食糧の増産。特に米と麦の主穀は強制供出の命令が出て戦争は終わってもそのあとの 食糧不足で増産と配給で多忙な日々を送りました。
 同二十九年は五月に冷害で苗代の稲苗に稲熱(いもち) が発生してその防除に村田氏は町内の苗代の巡回に大わらわでした。同三十五年六月は雲母峰に梅雨前線が停滞して滝の様な豪雨で金渓川に架かる橋は全部流失して 堤防は決壊して大変な被害を受け、その後の復旧にも県当局、農政局へも陳情に足を運び、 努力の結果元通りに復旧できました。
 その後村田氏は産業課長となり、今度は農業の近代化農業構造改善事業が はじまり、神武天皇以来の大事業にも陣頭指揮をなされて町内の耕地を全部短冊型の美田に 仕上げました。 そして同四〇年には町の収入役に、次は四十四年に助役に選任されて藤川四郎町長を助けました。
 昭和五年に役場へ勤務それ以来四十三年間神森から雨の日、風の日も自転車で通勤し、 背広姿は式祭日だけであとは作業服姿で誠実律気を通されました。 昭和六十年十月十五日亡くなられ、享年七十二歳でした。