第358回

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  柴刈り上手な徳治郎爺     文 郷土史家 佐々木 一

元気な徳治郎爺(昭和二十四三月撮影) 元気な徳治郎爺(昭和二十四三月撮影)

 「柴刈り、縄ない、わらじをつくり、親の手を助け、弟をかばう」という二宮金次郎の歌にあるように、お正月をすぎて雪の降る日は、藁を打ち、柴を束ねるための縄をない、山行きのわらじ作りに精を出しました。二月に入って寒の明く節分を待ちかねて、西の山に雪の降らない日は背中に弁当と鎌、鉈(なた)、鋸(のこぎり)の道具を入れた「負いね畚(ふご)」を背負い、打ち掛け足袋に草鞋(わらじ)掛けで山へ登りました。  
  柴山へ入って柴を刈る場所はおのずと決まっていて、西菰野村は金谷から雲母山の南の方、茶屋の上は、蛇不老山から上の雲母山の北斜面、中菰野村は宗利谷と大谷から三の瀬の中小路あたりまで、東菰野は三滝川の北側の小竹の日向(ひなた)から蒼滝の下の灰床(はいとこ)近辺と、このように大体の柴刈場が定められていました。また、柴刈場でも松、杉、桜、檜、楓は五守木といい、殿様時代から切ることを止められ、景勝保存のために残されました。  
 柴を刈る人はそれぞれに目当ての谷があって、その谷へ入り昼までは鉈で根切りを行い、午後は刈り倒した柴木を鉈で50センチから60センチほどにたまどり(切り取り)、それを膝と左足で押さえ縄を二重に巻いて絡(から)げます。上手な人は、細い枝葉つきの枝を柴の中心に、「脛(すね)当て」といわれるその周りの部分には枝葉のない柴木をぐるりと当てて、一束を花の様に見事に仕上げます。こうして出来た柴は切株の上に寝さして乾かします。  
 御鍬まつりが過ぎて春の彼岸近くになると、山の雪も溶け一日の日も長くなり、柴も乾いて軽くなるので、柴出し作業がはじまります。葉付きの椿や樫の長い木を切り、根元を先にして谷の落し場に置いて、この葉つきの長い木に柴を一把ずつ藤の蔓(つる)でしっかりと縛りつけます。これを「引ずり」といい、一つの「引ずり」は十把から二十把の柴で仕上げます。三の瀬から大谷、天狗と三つの谷に落とし場があって、いずれも途中に石滑(いしなめ)(滝状の急な崖)があり、この石滑をうまく落すのは上手な業(わざ)が必要です。三の瀬前はここで圓蔵(えんぞう)が亡くなったので「圓蔵落し」の名がついています。  
 落し谷の下にはゆるやかな床場があって、ここで「引ずり」の柴の蔓を切り一把ずつ並べ、ここから柴を三把ずつ背負い、三之瀬の茶店の前の広場まで出します。  
 こうして西の山で作った柴は上柴(じょうしば)といい、御飯やお茶を沸し味噌汁を炊くのに使い、一年間で二百から三百把の柴が必要でした。後の風呂焚や牛の飼葉を炊くのは、近くの里山や川ぐらで笹や小柴を刈って、それを焚きました。  
 写真の「柴刈り上手」の爺さんは地蔵の徳治郎といい、明治十九年(1886)生まれで、この写真は昭和二十四年(1949)三月今の湯の山清気橋の上の三の瀬の谷で柴を刈り、それを背負って湯の山街道まで出て来たところを湯の山温泉へ来遊の名古屋からの観光客が、爺の姿に目を奪われパチリと一枚撮ってくれたものであります。爺の家は集落の中心にあって代々弥八、弥七を襲名していて、仏壇の位牌に元禄十六年(1703)の古いものが残る旧家です。徳治郎爺は百姓仕事をすると、牛使いをはじめ何をしても手早く上手にやるじいさんでした。殊に牛の餌にする朝草刈りは、朝早く田圃の畔の色のよい青草を上手に刈り、それを草刈籠に一杯山盛りにして帰って来る姿は格好よく、村一番の働きものでした。