第359回

バックナンバー

  杖をひき史跡探訪の小川重太郎翁     文 郷土史家 佐々木 一
小川重太郎翁(昭和四十五年七月撮影)
小川重太郎翁(昭和四十五年七月撮影)
 小川重太郎翁は明治二十五年(1892)員弁郡梅戸村南金井に生まれました。明治三十八年四月、 県立第二中学校に入学しましたが、惜しいことに同四十年病気のために退学し、 家業の農業に従事、向学の念厚い重太郎は、治田新町の岡田静堂、南大社の清水梅荘、 中上の遍崇寺の花山大安、丹生川の持光寺などへ通い、漢文学を修学、 また南金井の石川菊次郎、その弟の豊松に和算を学びました。
 そして、郷土史研究に関心の強い重太郎は、員弁郡内の員弁川をはじめ、青川、源太川、宇賀川の水利を地形、地質、古墳、古城などを調査してそれを詳細にしかも罫紙に筆書きで記録していました。こうした活動を村人が知り大正三年(1914) 二十二歳のときに梅戸村村会議員に推選されました。
 昭和になり日支事変、それに続く太平洋戦争が終わると、昭和三十年梅戸井村が町制を施行、その後県当局から町村合併を勧められて、石榑村と丹生川村が合併して石加村となり同三十四年には梅戸井町と三里村が合併して第一次の大安町が生まれ、その後石加村とも合併して大安町が発足しました。
 重太郎は町史編さん企画時の町長萩野禮治郎の要請を受けて、新しく生まれた新町名に古代からの歴史地名「大安」の呼称を町長に進言しました。「大安」とは奈良時代に聖徳太子の創立した熊凝寺が起源と言い、平城遷都後に大安寺となりました。天平十九年(747)「大安寺伽藍縁起資材帳」に記されている寺領の範囲が、員弁郡の南は宇賀川、北は源太川、西は竜ヶ岳、東は三里村の御井あたりと推定しました。 重太郎は、この様に古代の大安寺史料を繙いて郷土の地名と地形と照合し、奈良の大安寺まで足を運んで精査の上、一つの史観を打ち立てて新町の名を提言したものであります。
 重太郎の郷土研究は、身近かな南金井の「石仏古墳」にはじまり、門前の光蓮寺上の梅戸城跡、そして旧八風街道に沿う隣村の旧朝明郡の小島、田光、田口新田まで調査の足を延ばしました。それは天文元年(1532)の頃、近江の観音寺城の佐々木高頼の四男高実が、八風峠を越えて田光城を攻め、梅戸城、大井田城も攻め落とし、名も梅戸左衛門尉高実と名乗り、この三城を伊勢侵攻の拠点としました。 重太郎が田光などを調査したのは、田光城跡とその城外にある田光城の家老因道心の塚の遺跡を確認するためでした。
 また、大安町内をはじめ、員弁郡内の縄文、弥生期の石器土器、そして五輪石など、重太郎が苦労して収集した出土物は、全部大安郷土資料館へ寄託して保存されています。大安町史の資料となったものに「小川稿本」とあるのは、重太郎が生涯をかけて調査した野帳であります。なお身近なことで残した仕事は和算の先生、石川菊治郎豊松兄弟の顕彰碑、片樋の行基伝説の歌碑、そして徳善寺境内に梅戸村の俳人日置ていの句碑を建立したことです。
 重太郎は自分の雅号を「瓦楽多庵」「学界」「守愚」、などと自称して、勉強してきた漢詩を五言、七言に詠み、自作の詩を和紙に書いて楽しむ風がありました。昭和四十四年に大安町初の町民功労者の表彰を受け、そのあと同四十七年(1972)行年八十一歳で死没しました。