第360回

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  福王山と毘沙門堂     文 郷土史家 佐々木 一
福王山毘沙門堂の絵葉書
福王山毘沙門堂の絵葉書。
この絵葉書は、大正6年に田口区が作成したものの一つです。
 毘沙門天はインドの釈迦の道場を、夜叉(やしゃ)、羅利(らせつ)の巻属を率いて北方を守護する神と崇(あが)められていました。仏教の伝来と共に、日本に来て七福神の一つになって、財宝を授ける神といわれてきました。  
 日本に仏教の渡来は欽明天皇のとき百済の聖明王が仏像、仏典を天皇に献上したのがはじまりといわれています。その帰化人が湖東の蒲生野に住み、秦氏を名乗って百済の文化を石塔寺に残していました。聖徳太子は欽明天皇の皇子である用明天皇の御子で、女帝推古天皇を蘇我馬子と共に力を合せて、仏教を国の宗教として天下に布告され、小野妹子を隋へ国使として派遣されました。そして百済から多くの工人を招き、湖東の蒲生野を開き水田を設けられました。この湖東辺りに聖徳太子の創建説を唱える寺院に百済寺、西明寺があります。また百済寺から八風峠を越えた福王山にも太子開基説があり、千年の樹齢を数える髑髏(されこうべ)になった太子杉が残っています。
 そして時代は下って平安末、源平の争いに無常を感じた北面の武士西行は、二十三歳のときに出家して諸国を行脚しました。西行は特に近江の蒲生野を渉猟して「壬申の乱」の大友皇子と弟の大海人皇子の激しい争いの故事に胸をいため、峠を越えて聖徳太子信仰の福王山の毘沙門堂を詣で、麓の梅ケ丘に庵を設けました。  
 柴の庵によるよる梅のにほひきて  
 やさしきかたもあるすまひかな    の一首を詠んでおります。  
  先の聖徳太子は、大阪府南河内郡太子町の叡福寺の境内に「磯長墓(しながのはか)」があります。また西行は大阪府南河内郡河南町の弘川寺に塚があります。  
 聖徳太子そして西行法師にゆかりの福王の山は江戸時代桑名十一万石の領地でした。その藩主松平定勝公は、元和三年(1617)に伏見城から桑名へ入城、そのあと定行、定綱、定良、定重と桑名藩の前期を 宝永七年(1710)まで五代続きました。なかでも定綱は名君で、員弁の新田開発、溜池の創設、町内の田口新田の開発なども努められました。  
 比叡山の最澄は、京都の北の出雲路に毘沙門像を安置して、京の都の守護仏として祀りました。  
  この故事を知っていた定綱公は、桑名城の守りに、桑名城の京町御門前にあった毘沙門堂を、田口村の福王山に移して、その境内を藩のお建林に指定しました。その境内林には太子杉、天狗杉とよぶ千年の樹令を数える巨木が聳え、その天端に天狗が住み人々を威(おど)すというので、山内の小室沢に山番所を設け田口の鈴木庄屋に山代官を命じられました。  
 福王山の大杉は、藩主のお召船の船板にするぐらいで、下草、枯枝は、地元の田口村へ下さるのでした。  
  福王山の裾野の広い原野は桑名藩主のお狩場で、普段は山代官に狩馬、狩犬を預けられ、巻狩りの日は、多良、高須、長島藩主らを招かれて猪、鹿を追う戦陣訓練と狩りを楽しみになりました。桑名藩の後期文政六年に忠堯(ただたか)が武蔵の忍藩十万石へ移られる前の藩校は、進修館で督学は福村出身の平井澹所で、その下に国学者の黒沢翁麿がいました。あるとき田口の梅ヶ丘へ来て西行法師の遺跡と知り、鈴木庄屋に歌碑の建立を奨めたのはこの翁麿で碑の下の方に翁麿の名が刻まれています。