第361回

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  嘉兵衛の絵馬の奉納     文 郷土史家 佐々木 一
嘉兵衛が奉納した絵馬
加佐登神社にある嘉兵衛が奉納した絵馬 (平成20年2月撮影)
 西菰野村の酒造家であった小林嘉兵衛は、文久元年(1861)十一月八日、鈴鹿市加佐登町にある加佐登神社へ、縦1メートル、横1.48メートル、畳一枚ほどの大きさの「高砂の翁(おきな)、嫗(おうな)」の描かれためでたい絵馬額を奉納しています。  
 この春、建国記念日のお祭りに加佐登神社へ参拝して、同神社の社務所の中の壁に掛けられてある絵馬を拝見させていただきました。以前は拝殿の軒下に掛けてあり、風雨に晒
(さら)されて額の下半分はすり減ったので、社務所の屋内へ移されています。  
  絵馬の絵柄は、左手に大きく相生の松が翠
(みどり)も青あおと美しく画かれ、その松の向こうに日の出の真っ赤な日が昇り、空に真名鶴が二羽舞い飛んでいます。絵馬の中心には高砂の翁が、手に竹の熊手を持ち肩衣(かたぎぬ)に白い袴姿で立っています。その左手に嫗が、白い頭巾を被り、うすみどり色の着物の上に上品な藤色の絽(ろ)の打ちかけを羽織り、右手に竹箒(たけほうき)を持って翁に寄り添っています。そして嫗の足許に亀が一匹、首を上げ嫗を見ています。  
  このめでたい絵柄のはじまりは、播磨の国の姫路の手前にある高砂神社には黒松と赤松の相生の松があって、付近の浜辺の美しい景色と合わせて有名になり、この相生の松と高砂が能の謡
(うたい)いに歌われるようになり、この絵馬のように絵になって広く知られました。  
  この絵馬には表に「西菰野酒造家嘉兵衛」とあって、裏には「文久元年辛
(かのと)十一月八日歳三十」と書かれています。この絵を画いた絵師の名は、風雨のためにすり減って落款は読めず朱印の朱の色だけが残るだけです。絵は京都の専門の絵師に注文したものか、昔は日永(四日市)あたりに団扇に絵を描く人が居ましたのでもしくはそこで制作されたのかもしれません。額の板材は桐の良材を三枚接(はぎ)したものを用い、額縁も紫の色が塗ってあります。  
  嘉兵衛酒屋のある西菰野村は村の南に丘陵が西東に続き、桜村坊主尾
(ぼうずお)へ抜ける道の東側の東堀谷に平岡神社と呼ぶ氏神がありました。この宮は、河内国の枚岡神社から天児屋根命(あめのこやねのみこと)を勧請してまつり、西菰野、中菰野村立会いの宮でした。なお絵馬を奉納した加佐登神社は、国土開発神の日本武尊を祀ります。尊が東国を平定しての帰り道に伊吹山の物の怪のたたりで、重い病にかかり、この野褒野までやっとたどり着き、ここで亡くなられたと伝えられていて、その陵は宮の西側にあります。この宮の名の加佐に因み、昔は瘡の病気また脚の痛みに利益があるといわれて祈願する人が多かったそうです。  
  嘉兵衛酒屋のあった西菰野村は酒造り用の水の水質の良いことでも知られ、村の西の湯の峰には九之助酒屋が「蒼滝」と呼ぶ銘酒をつくり、東の嘉兵衛酒屋は「萬嘉」という名の酒を売り出していました。菰野村の領主の土方氏は、わずか一万二千石の小藩の藩主でしたが、城下町の繁栄策として、商いを業として多くの資本が必要な酒造業からは、運上金や冥加金などの税の取立てを免除していました。  
  嘉兵衛の家の墓地は字射谷谷
(いやのたに)の水沢道の東側にあり、一番古いもので元禄七年(1694)五月二十八日と刻まれている墓など、数基が並んでいます。