第362回

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  親鸞聖人と九品寺     文 郷土史家 佐々木 一
九品寺の石造六地蔵
九品寺の石造六地蔵
 田光の十念山九品(くぼん)寺では、往古より伝来の寺宝「親鸞(しんらん)聖人形見のご影像」と「仏涅槃(ねはん)図」が長い年月を経て変色損傷を受けていました。そこでこの度京都の文化財修理所で表装補修が行われて、立派に元通りになり、五月五日に開眼供養の法会が営まれました。  
  九品寺には本尊阿弥陀如来像をはじめとして「善光寺一光三尊仏」「地蔵菩薩像」「一寸八分の黄金仏」が安置されています。このほかにも本堂南側の外に石造六地蔵尊があります。この六地蔵は石幢形六地蔵で、伊賀の赤目地方の寺院にみられますが、北伊勢地方にはない珍しいものです。
  今回は「親鸞聖人形見のご影像」について九品寺に伝わる由緒、縁起などを考えてみたいと思います。
  聖人は承元元年(1207)念仏禁止により越後に流され、師の法然は土佐に送られました。建暦元年(1211)聖人は流罪を許され、この後越後から信濃を経て上野佐貫から常陸へと移りました。元仁元年(1224)ごろには常陸の稲田の庵にあって「教行信証」を著し、また稲田あたりの百姓に懇
(ねんご)ろに念仏の法を説くとともに、頼まれて田植え唄も作ったり、田植えを手伝ったりしたそうです。分暦元年1234)聖人六十二歳の還暦を過ぎ、生まれ故郷の京都を思われて、関東のことは弟子二十四輩にまかせて、京都へ戻ることになりました。
 京都への帰路は弟子性信を伴い、記録に残る旅路のあとは、次のとおりです。
一、 真楽寺 (小田原市国府津三丁目)
  聖徳太子の開基といい、天台宗でありましたが、住職の性順が聖人に帰依して真楽寺を起こしました。本尊阿弥陀如来と聖徳太子像と六字の名号を聖人から受けたといいます。
二、 箱根神社 (箱根町元箱根)
  一般に箱根権現と呼ばれ、源頼朝も崇敬した東国第一の神社でした。この神社の神殿と寺院を創建した万巻上人は伊勢国の多度大社の神宮寺も開創しています。聖人はこの箱根神社に自刻の木像を残しました。下総の報恩寺を起こした弟子の性信はこの神社近くの箱根峠まで聖人に付き添ってお供してきましたが、「京までの道程は遠い。ここから帰って東国の布教こそ大切」と諭され形見として背中の笈(きゅう)を渡されたそうです。
三、 妙現寺 (岡崎市大和町)
 「柳堂」と呼ばれる聖人が三河の門徒に説かれた堂がいまも残り、鎌倉初期の建造物として国の重要文化財に指定されています。
四、 法盛寺 (桑名市萱町)
  この寺は古くは天台宗で、三河の国額田郡矢矧
(やはぎ)にあって、柳堂阿弥陀寺と称しました。聖人はここでしばらく逗留され、弟子忠円が住職となり真宗に転じました。その後応仁二年(1468)乱を避けて桑名に移りました。十三世寂然は本願寺准如上人の嫡孫で准蓮枝格の寺として北勢四郡に五十七カ寺の末寺がありました。文化八年(1811)伊勢国総触頭となり、柳堂、西御坊と呼ばれていました。
五、 九品寺(菰野町田光)
  もと八風峠下の切畑村にあって朝明寺と称し天台宗でありましたが、住職の誉阿
(よあ)、浄土宗に転じ九品寺と称しました。この寺の由緒記に「聖人帰洛の途次当山に一宿あり聖人より弥陀の尊像一幅を誉阿に『吾日頃の念持仏なり別れを惜み、この霊像を形見に進上』と申され授与を受くる」とあります。