第364回

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  萱葺きの家と撥ね釣瓶    文 郷土史家 佐々木 一
昭和三十六年に撮影した杉谷地区の農家
 昭和三十六年に撮影した杉谷地区の農家。
 写真左に撥ね釣瓶があります
 昔の農家の建物は母屋も納屋も、萱葺(かやぶ)きか藁(わら)葺き屋根の家で、瓦(かわら)葺き屋根の建物は武家か庄屋の家でした。一般の百姓家が瓦葺き屋根の家に住むことは江戸期には御法度となっていました。  
 萱葺き屋根の家にも利点があって、天井が高く竹のすのこで編んであり、囲炉裏
(いろり)かまどの煙が天井の上まで昇ると屋根の萱草の防腐になり、つし二階に収納していた柴や薪(まき)にも虫がつきませんでした。また大風にも地震にも自由自在に揺れて元へ戻る緩衝式になっていました。それは屋根を支える合掌の丸太の先が鉛筆の先の様にとんがって桁に受け穴が開けられて、弥次郎兵衛(やじろべえ)式の工夫がされていましたからでした。   
 合掌造りの家は四方に庇
(ひさし)も無く、大雨や大雪も滑り落ちて屋根に重荷がかからない様に長い間の経験と実際の保全の知恵から生まれたものです。合掌の材料も屋根裏のかご作りも近くにある里山や竹藪から自給できるものでした。   
 萱葺き屋根の家は夏は涼しく、冬はかまどの前で手をあぶり暖を取りました。   
 夏は牛と鶏と猫の共同生活でしたので、夕方になると土器の蚊遣
(かや)りで枯れ草をくすべ、よもぎの生をくすべて蚊を外へ追い出しました。また寝るときは蚊帳(かや)を吊り下げ、その中へ入って休んだもので、近江日野製の蚊帳の中で寝るのも風流な感じがしてよいものでした。   
 この写真の家では母屋の前の木戸口に「撥
(は)ね釣瓶(つるべ)」がありました。井戸のまわりには石積みがあって、井戸の口へ竹の竿に釣瓶がつけられて井戸の中へ真っ直ぐ降りる仕掛けになっていました。この釣瓶に一杯の水が入ると梃子(てこ)の応用で水を汲み上げました。この井戸の水は、主にお茶を沸かし、ご飯を炊き、煮物を作るときに使われました。野菜を洗い、お風呂を沸かす水は母屋の裏を流れる小川の水をせき止め、そこで洗い物をしていました。   
 今の上水道の栓をひねれば水が出るのと大違いで、手間暇はかかりますが、小川の流れる水はきれいで、洗い場にはモロコ、フナなどの川魚も棲んでいました。日中に野良仕事から帰ってきて、汗まみれの体を小川の流れにひたし、汗を流して涼をとるのは極楽の心地でありました。   
  そして写真の母屋南側の障子は日の光が当たり真っ白に輝いて、この家に住む人の心意気が判ります。軒端の日だまりは、子兎が飼われ、広い庭には鶏の三羽つがいが仲良く餌を拾っていました。庭のあちこちには菊の花が咲き、屋敷の南東には樹齢は三百年余の信濃柿の古木が植えられていました。信濃柿は名のごとく長野県の原産で、果実は小粒ですが、実にタンニンを多く含み、実の青いうちにちぎり柿渋をとります。この柿渋は防腐剤になり、木や麻、紙に塗り、殊
(こと)に夏は紙を貼り合わせ、その上に柿渋を引いて蚤(のみ)の防除にしました。渋柿は屋敷の巽(たつみ)(南東)の方角に植えられていました。   
 私はこの年の晩秋、釈迦ケ岳へ登るために、この家の前を通りました。ここから八坂の辻を西へ上り、途中山道を右に折れ、根の平から八風競馬場へ出て切畑から登山道を登り、滝が坂から中峠へ出て、尾根筋を釈迦ケ岳の頂上に着きました。日の短い季節なので、急いで行きに登ってきた道に戻り、杉谷へ無事に帰り着きました。