第365回

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  信長に仕えた
   桑原伝左衛門と桑原権之助
     

文 郷土史家 佐々木 一
岐阜県大垣市上石津町に残る桑原家
岐阜県大垣市上石津町に残る桑原家

 菰野藩初代の雄氏の夫人八重姫は、織田信長の二男信雄の子として天正十六年(1588)生まれました。祖父の信長は、天正十年(1582)京都の本能寺で明智光秀の謀反により亡くなり、そのあとは秀吉が中国攻めで勢いを得て、次の天下取りの気配が窺えました。それに対して家康と信雄が組み、小牧長久手の合戦が起こりました。次に秀吉の小田原攻めが始まり、秀吉の大胆果敢な行動に信雄は心穏やかならず反抗して、天下取りを急ぐ秀吉の怒りを買いました。
 信雄は父の信長より性格が穏和で、戦場を荒馬で疾駆して戦う勇将ではなく、謡、舞、音曲に親しむ風であったので、秀吉に嫌われました。はじめ関東の那須野に追放された後、遠く秋田そして朝熊、和泉、伊予まで追われました。その苦難の放浪の際にも土方雄久は主君の信雄に従い、片時も側を離れることなく忠勤を励みました。その伊予の旅宿で天正十九年(1591)信雄は自分の娘の八重姫を雄久の長男の雄氏と妻(め)合わすことを約束しました。文禄元年(1592)海内を統一し大阪城の主となった秀吉は、なんと朝鮮出兵を夢想し、国内の武将に所領の増加を質に出兵を募りました。雄久は能登に一万石、雄氏は石榑で三千石与えられました。 
 この朝鮮出兵の最中の慶長三年(1598)八月、秀吉は伏見城にて六十三歳で病没しました。その子秀頼が伏見城から大阪城へ移った翌年の九月、重陽の賀節に登城の家康を雄久をはじめ大野、前田が組して暗殺するとの風評が流れました。このことが家康の耳に入り、直ちに雄久、雄氏は遠く常陸の太田へ追放されました。
 明けて慶長五年(1600)の九月、家康は江戸を出て会津の上杉を討つため下野の小山へ陣を進めました。これは石田三成を関ケ原へ誘き出す陽動作戦で、小山の陣中へ三成挙兵の一報が入りました。近くの常陸の太田に雄久を追放してあり、家康は直ぐさま雄久を陣中へ呼び寄せ「お前は加賀の前田と従兄弟の間。前田を加賀に引き止めて置く様、説得せよ」との命を受けました。雄氏を陣中に止め置き、雄久一人で小山から前橋、善光寺、糸魚川を経て加賀へ急行し、前田利長に膝詰めの談判で、西軍の動静、天下の形勢を諄々(じゅんじゅん)と説き、関ケ原への出陣を止めさせることに成功しました。九月二十日雄久は利長を伴い大津の陣営の家康に謁し、東軍大勝の嘉詞を言上して、家康より賞詞を受けました。
 戦勝後雄久には能登の旧領に合わせて一万五千石、雄氏は菰野と近江で二十カ村一万二千石、親子共に大名に取り立ての栄誉を受けました。
 雄氏は翌年の四月に菰野に入部、かねて織田信雄と雄久の両親の定めた八重姫と婚儀を挙げ、織田家から姫付きの家老桑原伝左衛門を吉沢村に臨時の邸宅を構えて迎え入れました。
 この姫に付き添いの家老の遠祖は四国伊予の松山、桑原村の出身で戦国期に流浪の末に織田家に仕え、本能寺の変では信長身辺の警護に就き、父桑原祐定は討ち死しています。その後伝左衛門は信雄の重臣となり、八重姫の養育にあたり、姫が輿入れの後は菰野藩の年寄役を勤めました。
 一方の美濃の上石津一之瀬の郷士桑原権之助家は、はじめ員弁郡の阿下喜城に拠り、天文十四年(1545)のころに伊勢街道沿いの上石津牧田川の一之瀬に居館を構え織田家に仕えておりました。天正元年(1573)浅井長政攻めの姉川の合戦に参戦して手柄を立てました。関ケ原の合戦には参戦せず養老の石河氏の肩入れをして石河氏を尾張六十万石の家臣に推し、桑原氏は養老、上石津地域の大庄屋をして牧田川周辺の村治に当り、その居館は今も豪装な構えをよく残しています。