第367回

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  戦後の食糧難
文 郷土史家 佐々木 一
昭和三十年代の農協の様子
昭和三十年代の農協の様子

 昭和二十年(1945)の十二月七日、三重軍政部隊長のカーナー少佐と三重県知事青木理の名で、宛名が「三重県の農家各位」となっている赤刷りの一枚の通達文書が県下の市町村に届きました。それには
 「三重県民の皆さんが楽しいクリスマスと幸福な新年を迎えられることを、本官と三重県知事は願っております。
 まず経済的な生活が保証されるには、日本人総てが国家の再建に協力することが望ましいのです。農家諸君は割当以上できるだけ多く米を供出することにより国民と国家を救うことができます。
 今年の全国の米の作柄が平年作を上回り全農家が出来るだけ超過供出するだろうとの見通しから、十一月一日に一人一日の配給量が約一割引き上げられ二合五勺(しゃく)から二合七勺になりました。
 日本の人口は数百万の引揚者を含まずとも、この一年間に人口は百万人も増えたこと、それにいまの日本は外国から食糧を買うだけの経済力がなく、日本国民の食糧はどうしても日本の農家の供出に頼らなければなりません。そして米の闇売りは、インフレーションを招き、その結果農家は必要な資材をもっと高い値段で買わなければなりません。
 なお農家が超過供出すれば、肥料、農機具、燃料、薬剤、ゴムロール、電気、衣料の割当が増え、公の業務、輸送、通信がますます良くなります。
 割当以上に供出すればするほど、民主的平和国家に再建しようとする日本国民の誠実さを米国はじめ世界各国に認めさせることになります。またこれにより理由なきお情けを受けないことを米国の国民に示すことになります。
 明日供出するのでは遅すぎます。何か事故が起ったり、盗まれたりするかも知れないので、明日といわれず今日、米の割当の百%以上できるだけ多く供出して下さい」

 これがマッカーサー聯合(れんごう)国軍司令官下の三重軍政部隊長の通牒でありました。
 当時三重県内では前年の昭和十九年六月が大旱魃(かんばつ)で、植付不能の村も続出し自分の飯米も無い農家もありました。それが翌二十年にも影響して県内でも自主供出を主張する農民組合の意見が出てきました。こうした強制供出に反対の動勢に、同二十二年(一九四七)軍政部隊長から「本官が列挙した重要な規則に協力し服従することを拒否する者には処罰を行う定めになっており、最寄りの警察官が民家に立入り検査し、違反者を獄舎に投ずるよりは、協力が穏やかに行われる方がよいことと考えるもので、これが遂行に万全を期せられんことを切望する」と知事に要請しています。
 こうした食糧難の危機を穏便に処理実行するために役場では勧業係が主となり、県から割当の供出量の集落別の割当に農地委員、区長、農家組合長などが役場へ集合して、まず集落の出来高具合を実地に検見をして供出米の集落毎の算定に考慮されました。
 農林省、食糧庁からお米について次のようなお願いがありました。

  1、籾(もみ)の乾燥を充分に正味一俵十六貫に
  2、新俵に入れ縄をかけ、かたく締めあげて
  3、票箋二枚を忘れずに名前、目方、品種名を。


 お米のほか大麦、裸麦、小麦、甘藷、馬鈴薯の供出割当もありました。