第368回

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  木村兼葭堂と菰野人の往来
文 郷土史家 佐々木 一
四日市市川尻町にある善生寺
四日市市川尻町にある善生寺

 木村兼葭堂(けんかどう)は江戸後期の大阪で本草(博物学)研究家で名を知られた人でした。家は坪井屋という酒造を家業として、現在の大阪市西区北堀江町の大阪市立中央図書館あたりで元文元年(1736)に生まれました。号の兼葭堂は、家の庭の池に葦が生えたのでそれに因むものといわれています。
 早くから本草学を京都の小野蘭山(おのらんざん)に学び、日本画は池大雅(いけのたいが)、篆刻(てんこく)を高芙蓉(こうふよう)、詩文は片山北海から教えを受けるなど、当時学問の府の京都で最高の知識を身につけました。自分は好きな学問趣味に没頭し、家業の酒造りは番頭に任せるままでしたが、寛政元年(1789)老中松平定信の発令になる倹約令に酒の増石が触れ、監督不行届の科(とが)で主人の兼葭堂が一時「所払い」の罰を受けました。
 このことを聴いた長島藩主の増山雪斎(ましやまてっさい)が庇護の手だてを講じ、藩領に招きました。同二年の九月二六日、兼葭堂は妻子を同伴して、まず京都へ向い師の小野蘭山、池大雅の許へ立寄り挨拶して、東海道の石部宿から、途中長島藩の十時梅崖(とときばいがい)の出迎えを受けて、九日の夕方に長島藩領の川尻村に到着しました。
 内部川の川下左岸にある川尻村は、当時長島藩領と天領の相給(あいきゅう)(一つの村に複数の領主がいること)で善生寺、熊野神社の南が長島領で、楠の大木のある所が庄屋の石榑久右衛門の屋敷跡かとも思われます。
 さて兼葭堂が川尻村へ来て三日目の十月十二日に長島藩から南川文蔵がはじめて挨拶に来訪しています。この文蔵は菰野藩の儒学者南川金渓の長男で、長島藩校文礼館へ藩命で遊学して督学の十時梅崖の内弟子となっている二十歳の青年学徒でありました。
 兼葭堂は川尻村での生活を日記に記録しています。その中には文蔵をはじめ、菰野人の往来がはっきりと残されています。
 寛政二年十一月十八日、兼葭堂は南の善生寺と北の正休寺へ挨拶に参詣しています。十二月一日家内同伴にて長島へ行き、同四日長島城へ十時梅崖の同道で藩主増山雪斎に寒気お見舞のため登城し、六日は小向(おぶけ)まで十時梅崖の送りを受け、夕方川尻村へ帰っています。次いで十日、朝明郡永井村の庄屋藤波太仲の来訪を受けています。翌三年の一月十日長島城登城の後、永井の藤波庄屋に会い、その後川尻村へ帰っています。同年二月九日、兼葭堂のもとへ十時梅崖の供として南川文蔵と菰野藩龍崎九兵衛が来訪し、親戚筋の石榑久石衛門に会いました。二月十五日には兼葭堂が大阪から沢山持参した図書の虫干しを文蔵が手伝い、そのまま泊っています。三月五日、山田の月遷画僧と菰野の龍崎久兵衛の来訪があり、同日二十七日長島へ行き十時と共に登城しています。六月二十四日には石榑久右衛門の取りなしで川尻村の村衆を招き引越祝義を行っていますが、これには文蔵の手伝いがあったと記録が残っています。八月九日は菰野龍崎九兵衛と十時の来訪があり、またこのころ川尻村に新宅が建ったので、その祝儀に石榑照光寺より酒肴が届いています。十二月十六日南川文蔵が来て一泊して翌朝菰野に帰っています。
 また菰野下村の森正綱の記録「傾蓋漫録」によると、正綱は寛政四年一月十二日川尻村に兼葭堂を訪ね、昼食の歓待を受けました。この時正綱は手土産に菰野産のカン蘭、福寿草と池底の服部寄託の矢の根石、鳩峯の煎餅石を贈呈し、兼葭堂は薬の標本、蘭書、世界地図、絵画を正綱に見せ、話は源内のエレキテルにも及んでいます。兼葭堂は菰野のことを聞き、三月十二日菰野城下を訪ねて諸所を見物、帰途下村の森家へ立寄っています。