第369回

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  近江大河原若宮神社へ初詣
文 郷土史家 佐々木 一
野洲川ダム湖付近で撮影
筆者は昭和36年にも若宮神社へ山越えで参拝に出かけました。この写真はそのときに野洲川ダム湖付近で撮影したものです。

 昭和二十五年の正月は終戦から五年目で、お餅をついて食べられるだけでも幸せと思われたころです。この年は「庚寅」の年にあたり、寅の年は天災の多い年ということで、正月五日に男四人が集まり、「今年の平穏無事」を祈るとて近江の「若宮神社」へ「初詣で」に行く相談が決まりました。
  揃って復員兵の四人は、軍隊で貰って来た古い軍服に巻脚絆、足許は地下足袋の配給がないので自分で編んだわらじ履きの装束でした。そんな粗末な出で立ちに携行食の餅を持ち出発しました。
  この四人連れの隊長は利三郎でした。利三郎は鹿や猪を捕る猟師に加勢して、山野を駆けめぐり獲物を見つけ追い出す術に長けていました。また、利三郎は、猪が何度も股の間をくぐっていくほどの勇ましく、また鈴鹿の山あたりの地理もよく心得ていました。こんな利三郎の後をついて行けば、山道も踏み誤ることはありません。
  朝の暗いうちに家を出て、途中、湯の山三の瀬の茶屋の爺に「山道は危ないので気をつけて行って来い」と励ましを受け、涙橋、大石橋を渡り、一の谷の覚造爺さんの山小屋へ寄り、草鞋の紐を締め直して武平峠へと急ぎました。峠の手前の念仏ハゲで炭を焼いている銀二が、炭俵を三俵背負い、滑るハゲを巧みに歩いて来るのに出会いました。そして武平峠を越え、そこに現れる滝ヶ坂は木の根を掴みながら下らなければならない急坂です。峠の下は野洲川の源流ですが、水が少ないので凍てついていました。
  いよいよ大河原越えで滋賀県へ入ります。暫く行くと松山谷で炭を焼く銀二の炭小屋があり、炭窯の火は止まっていましたが、中には炭俵が山と積まれていました。さらに野洲川に沿う杣道(そまみち)を歩むと、先導の利三郎が雨乞岳の南斜面を指さしました。そこには大平鉱山いう山があり、西菰野から九十郎、信松、宗一の三人が働きに来ていましたが、昭和九年の三月十六日に春の雪崩れが発生し、遭難しました。利三郎は「俺はその時救出隊の一人で、鈴鹿峠まわりで大河原まで自転車で来て救出作業にあたったが、深い雪の下で助けること出来なかった」と唇を噛んで語りました。
  この大河原道は、野洲川の肩に細い人の通るだけの踏分道で、所どころに道を間違えない様に、石を重ね積んだケルンが印として置いてあります。田中林業の山小屋を過ぎると道も平垣になり、野洲川の本流に流れ入る広越谷川との出合いになり、南の水沢峠を越えて若宮参りに向かうという二人連れに出合いました。野洲川の青く淀む淵があり、その腰を巻いて歩みます。やがて野洲川ダムの砂止堰堤が新しく設けられて、ここから道は人造湖の上部に工事用道路が施工されていました。やがて完成間近のダムサイトが見えてきました。工事の現場監督の許しを乞い、目ざす大河原の若宮神社への道を急ぎ下ります。
  若宮神社は、初詣での人達で賑わっていました。この神社は大河原八十戸の村から神籤(かみくじ)に当った二十五歳の男子二人が年番神主となってお宮の守護経営にあたっています。宮の前にある善法院は、この宮の神宮寺であります。宮の創建は養老二年(七一八)という古社で、境内の裏を野洲川の大河が流れ、境内の樹木も天を突く巨木ばかりです。
  この宮の御祭神は伊邪那岐尊(いさなぎのみこと)の御子の月読神(つきよみのかみ)で、妹神が天照大神(あまてらすおおみかみ)、弟神が須佐之男命(すさのおのみこと)ということで、天照大神は名の様に大陽神、月読神は、お月さま農耕神といいます。この宮のご神符をお受けして、昼食は携行の餅を野洲の川原で焼いていただき、急ぎ武平峠までの帰路に着きました。