第371回
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  藪の中から出てみえた石地蔵さん
文 郷土史家 佐々木 一
潤田にある石地蔵さん
潤田にある石地蔵さん。立派なお堂に安置されています。

 潤田集落の北側には竹谷川が流れて、その右岸の西は「藪(やぶ)の内」という小字名がついています。このあたりは村落の西から北を囲むように竹藪が続き、これが釈迦ヶ岳から吹き降す冷たい風を防ぐ役目をしています。藪の中には竹と大の仲良しの欅(けやき)が植えられていて、欅が伸びて、竹が背の高くなるのを助けます。また欅が竹藪の上へ首をあげると、その幹を笹が撫(な)でて木肌を磨き立派な樹に育てます。
  このお話しの石地蔵は、この藪の中に長らく隠れてみえたのでしたが、村の子供らが見つけて暗い藪から出してもらい、明るい日の当る道端へと出て来てもらった地蔵さんです。
 石地蔵の本体は花崗(かこう)岩で、三滝川の菰野石です。大きさは、縦67センチ、横27センチ、その石に地蔵さんが刻まれています。お顔は優しく両手は胸の前で合せた合掌印を結び、蓮華台の上にお立です。右側と左側に年号があって、宝暦元年(1751)法名釈元了、そして明和二年(1765)釈尼妙亮とあって、左側に天明五年(1785)と読めます。この年号は224年前で、この頃に地蔵さんは建立されたのだと思われます。
 この地蔵さんの立つ所を潤田では「野ア垣内(のざきがいと)」と呼び、野ア姓を名乗るお家が十軒ほどあります。その先祖は桑名の出身で、江戸中期頃にこの潤田へ移り住み、竹谷川の右岸の竹藪の南に住居を設け、その周辺の土地を開発したものと思われます。その野攝ゥの人らが、先祖の苦労を偲(しの)び供養する意味で、この地蔵さんを建立して、はじめは世間に遠慮して裏の藪の中に建て、世の中が変わりここの子供たちの呼び声でいまの地に安置したのでありましょう。この地蔵のお堂は、有名な大強原の大工、増田嘉十郎の手により作られたなかなか細工が巧みな立派なものです。堂は長い歳月の雨露に曝(さら)されて少し傷んで来ております。
 石地蔵は菰野町内にも十三体ほどありまして、村の入口の道端、辻で道しるべの役もして、毎年七月二十四日をお地蔵の命日といい村の子供が地蔵盆の供養をして、地蔵堂の前で盆踊りをするのが昔からの慣習(ならわし)であります。また信州から関東では塞神(さえのかみ)、道祖神、庚申塚(こうしんづか)を道傍に祀(まつ)る風習がありますが、菰野町ではそれがお地蔵さんです。
 昔の供養塔は、中世では五輪塔でした。国見岳にあった冠峰山三獄寺の寺跡には、この五輪塔が残っていました。それは空、風、火、水、土の自然世界を現すもので、亡くなると土に還るのだの現わであります。その五輪塔が時代が下ると一石五輪塔というお粗末な団子の様な形になり、それがまた頭を三角にして仏像を刻むものになり、さらに江戸期になって塔婆型の石塔になり、法名俗名、死没年月日まで入れる様になりました。そのころになると武士、僧侶、学者、そして苗字帯刀を許された人だけが石塔を建てることになり、一般の庶民は埋葬して塚状に土を盛って、その上に川原石の姿の良いものを川原で拾い載せて置くだけの粗末なものでした。
 この潤田の野搖_内の地蔵堂が建つあたりは「馬冷し」という地名でもあり、昔は潤田に大久保城之助という地頭がいて、村の西に館を構えて、夏になると馬を竹谷川の冷たい水で洗ってやったので、地名に残っているのだそうです。