第372回
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  水沢の弘法杉
文 郷土史家 佐々木 一
水沢の茶畑の真ん中に立つ弘法杉
水沢の茶畑の真ん中に立つ弘法杉

 雲母峰(八八八メートル)の麓に広がる扇状地の水沢は、古成層の石灰質を多く含む、肥沃な土質で、古代は葦見郷とよび、杉、檜のよく繁るところから「杉沢の荘」ともいわれていました。稲作をするようになり、透水性のよい扇状地なので水田用の用水確保を願い、村名も杉沢が水沢に次第に転訛(てんか)したものといわれております。
 そして古代の葦見田郷の由緒を残す延喜式内社の足見田神社が鎮座し、そして山の坊には天台宗の蔵林寺などの古いお寺がありましたが、ここも信長の兵火に罹(かか)り、その寺跡だけが残っています。この寺を鎮護の寺里神社跡もあります。
 江戸期に水沢村は菰野藩の領下で、戸数二七四戸、田は二百町歩、畑百三十町で、畑では大方お茶を栽培していました。菰野藩も水沢村にはお茶作りを奨励して、春秋には藩主が巡視、督励に水沢村へ出向き、常願寺の書院へ宿泊して庄屋肝煎を呼び、親しく水沢村のことをお聴きになりました。また水沢村の宮守衆も書院前に呼び、俄(にわか)の草相撲を取らせてご覧に入れたそうであります。
 この水沢茶のはじまりは、常願寺の住職中川和尚が、京都の東本願寺へ門主のお召しで参向の折、日本一の茶所である宇治へ寄り、お茶の優良種の種子を譲り請けて持ち帰り、村人に与えて播かせたのが始まりといわれております。
 さてさて本題の「弘法杉」は水沢谷町を登りつめた、鎌谷川の南側の茶畑の中にあります。その上には水沢茶業センターの事務所があり、まわりは見渡す限りに手入れの行き届いた、美しい茶畑が続きます。
 弘法杉は根元で二本にわかれ、両方の幹を合わすと周りは四メートル余、樹高は目側二〇メートルほどの古木であります。以前昭和四十七年に調査した時は、弘法杉の根元からこんこんと浄水が湧き出て手ですくい飲める様な状態であり、思わず両手を合わせていただいた様なことでした。この自然に湧水する泉は、その昔弘法大師が巡錫の折に杖を突き立てられたら不思議に清水が湧出した、という大師信仰から生まれた伝説から弘法井と名付けられました。その場所に杉を植えて目印としたので、その杉は弘法杉とよばれるようになりました。
 そして菰野富士の裾の西菰野にも、大石の下から清水が湧き出る泉があって、春わらび取りの人たちの一服場でもありました。菰野には弘法井の伝説はついておりませんが、南勢の多気郡多気町仁田の真言宗小野寺にも弘法井があります。
 水沢もお茶だけでなく稲作もしていましたので、このための水が必要でした。そこで田の用水を求めて、寛永十八年(1865)、名主の辻久善が内部川の上流、山の坊の楓谷(もみじだに)の西方で内部川に井堰を設け、その水をマンボで通して灌漑用水を引き、足見田神田神社の東方に水田を開きました。また現在の水沢小学校の北側に龍ヵ池を二つ築造して久善用水の貯水溜に当てて、お米の増産を図りました。その池の西側には、線刻彫りの石像楽師如来を安置して、水の守り仏としています。