第374回
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  庭師の和助
文 郷土史家 佐々木 一
庭師佐々木和助 昭和三十三四月撮影
庭師佐々木和助 昭和三十三四月撮影

 和助は明治二十八年(1895)二月一日に中菰野の農家、佐々木幸吉の長男に生まれました。日本は前年の八月一日に清国に宣戦布告をして、朝鮮や遼東半島を舞台に戦が始まりました。和助が生まれた二月は、清国の全権大使李鴻章と下関において講和会談が始まろうとする時でした。父の幸吉は平和の日の早く到来することを願い、長男の名を和助と名付けました。
 和助の家は先祖を嘉治郎といい、寛政年間(1789から1800)ころに始まる農家でした。和助は成人すると、四日市の日永の庭師に弟子入りして、庭作りの初歩の教えを受けていました。一通りの技術を身に付けた和助は、横浜に「三溪園[さんけいえん]という立派な公園が明治三十九年に開園して、庭造りの仕事があることを人伝てに聞き、横浜に出て一旗揚げようと思い立ちました。
 横浜の三渓園は、明治の初年に原善三郎が起こした亀屋という生糸問屋を引き継いだ富太郎が築いた広大な庭園です。善三郎の孫娘の婿にあたる富太郎は、買い付けた生糸を横浜港から米国をはじめ諸外国へ輸出して財を成しました。さらに銀行も興すなどして、横浜の貿易実業界の長老として活動しました。そして、号を三渓と名乗り、横浜の中心中区本牧[ほんもく]に庭園を造成、三つの谷を合わせて大池を掘り、その周りに臨春閣、月華殿、聴秋閣、燈明寺の三重塔の和風建築物を配した一大公園を築きました。
 三渓園は明治三十九年(1906)に一般の市民に公開されて、池泉廻遊式の庭園としてはその規模の広大なこと、日本三指に入るものでした。
 和助は本牧三の谷の一隅に住居することを許されて、三渓園の樹木の手入れ、自然石を用いての崩積みの庭作りに従事することになりました。ここに集まる庭師は腕に覚えのある職人連中ばかりで、殊に公園には海の汐風に強い黒松が多く植えられていました。この松の手入れ剪定には多くの庭師が行っていましたが、和助の[はさみ]の跡は群を抜く出来栄えでした。
 昭和十二年(1937)の十月、和助は横浜の三渓園での渡世も指折り数えれば二十二年の長きに渡っていました。この年の七月七日に支那事変が始まり、和助は生まれたときの日清戦役の再燃を思いやられるとともに、都会の生活にも飽きが来て、山あり野のある菰野がそぞろ恋しくなってきたので、妻と一緒に帰郷することにしました。
 和助夫婦には子がなく、中菰野は愛宕の宮跡の北、湯の山街道と巡見道の交わる辻の近くに、十坪ほどの簡素な住宅を設けて、永住の覚悟を決めました。人々は音に聞く横浜三渓園の専任庭師の和助が帰ってきたということで、菰野で坪庭、築山の設けのあるお家から和助に庭作りのお声がかかり、忙しい日々を送りました。
 東菰野の武家屋敷の広い庭には主木に松の古木が多くあり、この剪定は和助の腕の見せ所でした。和助は梯子を掛け天辺に登り、手間取る松の葉の一本揉みを難なくこなしました。また和助は石の表を見定めて積むことも得意で、湯の山温泉の旅館の玄関や中庭などへ自然にあるかのように見立てた石組みを積むことも行いました。
 菰野にも名物松が沢山ありましたが、その多くが枯死してしまいました。現在の旧役場跡に黒松が三本、生々と美しい姿をみせておりますが、この松も和助の手の跡が残る名木であります。
 数多くの庭の剪定を行った和助は、昭和四十五年四月二日、七十五歳で亡くなりました。