第375回
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  梅雨前線集中豪雨
文 郷土史家 佐々木 一
大湯水の幹線水路
菰野の大湯水の幹線水路に大石が転がり落ちて水路を塞いだので、石工が石を割っています。
昭和三十六年六月二十八日撮影

 昭和三十六年六月二十四日の朝から降り出した大雨は、二十六日の夜中の十二時から激しさを増し、二十七日の早朝一時からはバケツを一度にひっくり返したほどの雨の音で眠れないほど降り注いだ。二十七日、少し薄明るくなった四時に起き、入り口の大戸を少し開けて軒先をのぞくと川ほどの雨の水が流れている。
  これは大変と雨合羽に身を固め、草鞋を履いて鎌を手に持ち隣の豪友を呼び起こして湯の山街道を西へ登る。片倉集落の入り口の墓地を越えた所ですでに腰まで水がある。近鉄線路も流れて浮き上がっている。左手の大湯水の幹線水路は水があふれて滝のごとく下の田に落ちている。踏切を越えたところで駅西の町営住宅を見に行くという役場の川北氏と出会う。
  湯の山駅には町営住宅の人々が避難してきている。駅前から神明橋の袂まで出ると、三滝川も真っ褐(か)な泥水が石を転がし橋を揺すぶっている。橋の下の左岸の松の大木は根を洗われ、次々と流されていく。洪水の力の恐ろしいこと。肝心の大湯水の堰堤も取入口も川一杯の濁流で確認ができない。
  湯の山駅から急ぎかえると、集落の西の端の「猿尾」の堤の下で人が出て杭を打ち松を伐り猿尾の根方を抉る水をはねる「あうちかけ」の作業にかかわっている。ここでこの水を大刎(おおはね)の松林へ追い出さないと北垣内(かいと)の家が危ない。明治二十九年も猿尾の根方で同じことをしたという。
  そして近鉄線路を越えて高原(こばら)、大槌(おおつち)、大垣内方面を眺めると、一面の水原になっていて、振子川も満水のため西菰野道も塞がり、行くこともできない。
  二十七日の昼になると雨も少なく小降りとなり、村の人々も表へ出て来て被害の話で持ち切り。まず湯の山では涙橋の向こうの香雪軒前の道路がえぐれた。その下の三の瀬の一本松の道路に大穴が開き不通という。
  片倉集落の前にある片倉溜は上の古溜の余水吐けがコンクリート製になっていたが、それが水の力で引っくり返りそこから鉄砲水となって吐き出したので、下の大溜の堤が決壊せずに大溜を守ってくれた。大溜の堤塘が切れたら大変なことだったが、小溜の上が正眼寺の旧跡であり、無事だったことは薬師如来のご加護と片倉の人はいう。
  また一方の金渓川筋の方は茶屋の上の谷口橋が落ち、その下の茶屋の下橋も流失、金渓川の本流に瀬戸川が入る合流点で、雲母に降った豪雨がここで一つの巨竜となり、橋を全部連れて行ってしまった。そして曽我井堰、青禿、広幡の大切な井堰を流し、おまけに金渓川左岸の堤防をずたずたに切り破っていった。東菰野の見性寺橋も流失したという。
  そして昭和三十六年当時は大羽根園の団地が未開発であった。明治以前、三滝川寄りは両岸とも菰野藩の山代官が管理する霞堤防(信玄堤)が築かれ、そこは防災上松林となっていた。明治二十九年の大洪水のときも募(つのり)、新道(しんみち)、大刎、新林(しんばやし)、柳林(やなぎばやし)の松林と分木の水田が遊水池の働きをしてくれたので、人命、人家の被害はなく、昭和三十六年の集中豪雨でも人災は免れたのであった。
  この雲母梅雨前線集中豪雨の津の気象台の観測は、六月二十六日の夕方から翌二十七の夜明けまでの間、梅雨前線の超低気圧が鈴鹿山地の雲母峰の前面に、厚い層が舌状に張りついて局部的に集中豪雨となったと発表があった。それ以来、雲母峰に自記雨量計が設置されることになった。