第376回
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  村の始まり三軒屋
文 郷土史家 佐々木 一
潤田の西、土山の三軒屋
潤田の西、土山の三軒屋

 潤田の西の外れ、字土山に三軒の家が寄り添うように南北に並んでいます。昔から稲架(はさ)干しの脚は三本の丸太の頭をからげ、脚は土の中に差し込んで用いることや、「三人寄れば文殊(もじゅ)の智慧(ちえ)」の諺(ことわざ)のように、三軒がお互いに助け合っていけば安心して生活できるということが始まりです。今でも潤田集落は、この土山の三軒家が潤田村の根源といわれております。
 菰野富士山麓の江野扇状地において縄文人は、大きな石の下からこんこんと湧き出る泉を見つけ、この泉のまわりに三戸の掘立小屋を建てて、生活を始めました。男は弓を使って狩をし、女は裏の山へ入って木の実を採取しました。それらを小屋の中の炉で焼いたり煮たりして食べて命を保ちました。まずは飲み水のあること、風当たりの少ないこと、付近にどんぐりなどの木の実の成る樹のあることが、縄文人の生活の条件でした。
 地名辞典で調べて見ましたら、全国に三軒屋が三十八カ所あります。中でも東京都世田谷区の中に三軒茶屋の地名はよく知られており、これは江戸の人たちが相模の大山(1252メートル)頂上の神社へ雨乞いに出かける参詣の街道沿いに茶屋が三軒あったことに由来する地名です。
 また、菰野町内の西菰野、宿野、福村、千草、潤田、田光、杉谷、榊、田口、大強原、吉沢、諏訪の中に字名として「垣内(かいと)」と呼ぶ地名が残っております。これは大昔、田畑を開発する前に、四本の樹木を残し、その樹から樹へ四本の縄を張って、この縄張りを垣としてその内側を開墾し、出来た土地を垣の内と呼んだようであります。垣内の文字を貝戸の字が当ててある場合もあります。
 いつの時代でも大戦が終わり世の中が平穏無事になりますと、為政者は生きるための場や食料を得るため、まず田畑の新規開発の奨励を行いました。
 関ケ原の天下分け目の大戦の後、徳川家康が江戸幕府を開き国々に大名を配置して治めさせました。菰野では慶長五年に土方雄氏が家康から一万二千石の所領を与えられました。土方氏は、まず菰野陣屋の位置を定め、神社、寺院の再建を行い城下町つくりの目論見を立てました。なかでもお米のよく取れる海蔵川沿いの池底、大強原は、慶安三年(1650年)の大洪水で池底村付近の海蔵川右岸が大方流失したことから、万治二年(1659年)に池底村は高原の南の丘陵地へ移転し、より安全な所へ村づくりを断行しました。松山も池底にならい海蔵川の北へ移り、続いて諏訪新田開発の計画を立てて海蔵川を避けて北寄りの地を開きました。
 一方西の茶屋の上の丘陵地と、それに続く片倉も同時の寛文十年(1670年)に藩から新田開発の令が発せられてここへは宿野、福村あたりからその計画に参じて丘陵地の樹木を伐り、石を除け、木の根を起こして新しい田畑が出来ました。この事業に伴い、同地内寺坂にあった正眼寺、その南の堂山にあった金剛寺も西菰野へ移ることになりました。
 それに続いて地蔵新田の開発の触れが延宝二年(1674年)に出ました。藩は開発志望者に対して、一戸に一反づつの屋敷と当座の食糧米一俵を与えました。開墾者は雨露をしのぐ三九尺の家を建てて屋敷には野菜を作り、そして荒地の樹木を起こして新田村を作りました。集落名の地蔵は猿尾(内堤防)の下に双体の石地蔵があったのでその名が付けられました。その石地蔵は現在は智福寺へ移されております。