第377回
 広報こものトップ >>  歴史こばなし

バックナンバー

  お蚕さん
文 郷土史家 佐々木 一
養蚕の様子
養蚕の様子。
ここでは家の中ではなく、専用の養蚕所で蚕を育てています。

 養蚕は蚕を飼い、繭を作ることの仕事で、そのはじまりは弥生から古墳時代ともいわれています。伊勢国は気候が温暖で、平地では稲作を、南勢、中勢、北勢の山地では山桑を摘み、蚕を飼い、その繭から糸を採り、和妙を織り、伊勢神宮や朝廷へ献上していました。
 こうして養蚕(にぎたえ)と稲作は、農家の仕事として平行して進められてきました。稲作に早生(わせ)、中生(なかて)、奥稲(おくて)の作付け時期の区割りのあるように、養蚕にも春蚕(はるこ)、夏蚕(なつこ)、秋蚕(あきこ)の区別がありました。
 まず苗代に稲の籾種を播いた5月のはじめ、ちょうど多度祭りすぎに掃立て(ふ化した蚕を飼育する場所へ移す)ます。一令の幼虫のときは蚕室の温度を二十七度に保ちます。二令から三令までを稚蚕といい、桑の葉の軟らかな赤市種の桑を摘み与えます。掃立てから二十五日間位で四回脱皮して大きくなり、四令で最後の脱皮をして五令になりますと、生まれた時に比べなんと二千五百倍の大きさになります。この壮蚕の一週間で桑を食べる量が多くなると、養蚕の最後の仕上げです。蚕には朝、昼、夕と三度給桑して、午後三時の小昼どきに、蚕の皮などのカスや蚕糞(こくそ)を藺網(いあみ)を揚げて取り除いてやります。
 蚕飼いの仕事は桑摘み、給桑、尻替えの仕事が大変で、室内温度と空気の清浄を保つこと、餌の桑の良否が重要でした。蚕は人間の子どもと同じように大事に育てていたので、「お蚕さん」と呼んで大切にしていたものでした。
 昔は、家の中の室内飼育ですので、六畳に二本の蚕棚では狭く、給桑、尻替え作業を行うには八畳と廊下が必要であったので、八畳四間取りの母屋が競って建てられました。田光や池底に残っている大きな養蚕部屋は、大切なお蚕さん用に立てられたものであります。
 四令から五令の十日間が蚕飼いの仕上げの山で、五令になって桑を腹いっぱい食べ切ると、蚕の体全体がビードロ色に透けてきて、口から糸を吐く気配を示します。そうなると急ぎこの熟蚕を拾って藁蔟(わらしく)の中へ入れてやると首を振って巣作り(繭作り)を始めます。この日は蚕上げと言い、一家総動員でした。爺さんは蔟(まぶし/蚕が繭を作る場所)の用意、父さんは上り蚕を蔟の中に入れ、その蚕かごを棚に入れて二十四度の適温にしてやります。お婆さん、お母さんは上り蚕を目で確かめて拾い上げます。それらを集めてお父さんの所へ運ぶ役は子どもの仕事でした。上り蚕は糸を吐いて二昼夜位で繭作りをして、糸を吐ききると繭の中で蛹に変身します。
 そしていよいよ繭取り作業、蔟の中から繭を一粒づつ取り出してハリボテ籠(かご)へ入れて、上繭、しみ繭、玉繭に撰り分けて大きな繭袋に入れます。それを村の収繭場(しゅうけんじょう)へ運び、養蚕組合の仲間の人たちにもう一度選別してもらい、製糸名の入った袋に家別に入れて付箋を付けて製糸工場へ運びます。菰野あたりでは、垂坂の五島製紙か室山の亀山製紙へ荷車で運搬しました。製糸の原料部で家別に目方を量ってもらい、検定繭も家別に小袋に採りました。繭を製糸へ出荷して大仕事は終了です。お父さんは帰り道菓子屋によって「かしわ餅」を買って、それを繭を曳いていった荷車の梶棒の先に引っ掛けて帰ってくることと決まっていました。
 春蚕は気温が低く、蚕室に「埋薪」の炉を切って室温を一定温度に高めました。また雲母山の北側の広い谷に「桑の木谷」と呼ぶ谷があって、そこには山桑の古木が残されていました。そして、蚕は生桑を食べるので病気が多く、その守護仏として桑の木で刻まれた野登山の千手観音のお札を受けて来て蚕室に貼りました。