第378回
 広報こものトップ >>  歴史こばなし

バックナンバー

  葛の花
文 郷土史家 佐々木 一

 葛(くず)は秋の七草の一つで、蔓(つる)性の多年草です。秋の七草は葛のほかは薄(すすき)、萩(はぎ)、撫子(なでしこ)、女郎花(おみなえし)、藤袴(ふじばかま)、桔梗(ききょう)でいずれも優しく可憐な花を咲かせます。葛は根元に拳大の葛玉があり、それから茎を発生して地上に網目の様に蔓を伸ばし、草や木の上に蔓をからませて上に昇って葉を茂らせます。秋になると、茎と葉の間から花枝を出して紅紫色の蝶に似た香りのよい花を房状に咲かせます。これが「葛の花」で、秋の七草の花の中でも、最も風情のあるものです。
 葛は和歌や俳句にその可憐な花が詠われています。古くは万葉の歌人、山上憶良が次のように詠んでいます。

葛の花
葛の花は紅紫色の花を咲かせますが、色だけでなくいい香りがする花です。

  秋の野に咲きたる花を指折りて
かき数ふれば七種の花

また昭和の俳人、石田波郷は
葛咲くや嬬恋村の字いくつ
と俳句に残しています。
この葛の名の起こりは、遠く飛鳥時代のころに由来します。大和国の吉野地方に国栖(くず)とよぶ土着の人らが吉野川上流に住み、壬申の乱のとき都を逃れてきた大海人皇子(おおあまのおうじ)を匿っていました。乱が鎮まり天武天皇となられると、この国栖の人々を都へ招かれました。国栖の人々は、宮中の節会の際には国栖村の古歌をうたい、葛粉を作り献上することが例となりました。そこでその村の国栖を葛の文字に置き換えたことが葛の名の起こりである、と植物学者牧野富太郎博士もその植物図鑑に記しています。
秋が深まり、葛の花が咲き終えると、マメ科の植物である葛は「さや豌豆(えんどう)」のような実をつけます。晩秋になると、吉野の人たちは山に入って葛の根を探し、その根の藷を掘り出して葛粉を作り、それを湯で溶いて葛湯にして病人に飲ませました。また茎の繊維から葛糸を採り、それを機(はた)で織って葛布(くずぬの)にし、夏の衣料として葛粉とともに奈良の都へ売りに出たそうです。さらに葛の蔓を乾かしてから籠(かご)を編み、その上に国栖紙(くずし)を貼り、柿の渋を塗ったものが葛籠(つづら)で、衣装を入れるのに珍重されました。
 菰野あたりでは葛はマメ科の植物なので、マメヅルと呼びならされていました。秋になると牛や馬の秣(まぐさ)の端境期に当ります。野のススキ、カルカヤ、ウマゴヤシなどの野草は茎葉が強(こわ)張るので、牛や馬の餌にしてもあまり喜ばず、柔らかな畦草は刈って乾草にして貯蔵せねばならないので餌に困る時期でした。しかしマメヅルはちょうど花が咲き、その葉も緑濃く厚みを増しているので、絶好の牛の餌になりました。殊に金渓川の流れる川沿いの小さい谷にはこのマメヅルが一杯ありました。雲母峰の麓である金渓川付近は、土質が石灰岩地帯であるので、葉も色濃く、紫紅色の花は甘みがありました。
 このマメヅルは生育力旺盛で、植林地の檜(ひのき)、杉の若木の上に蔓を伸ばして這い上がり、植えた若木の生育を痛めます。この巻きついている葛の根を探して鎌で切り、蔓を引っ張ると簡単にするすると刈り取ることができます。同じ菰野でも三滝川筋にも葛の植生が見られますが、ここは花崗岩(かこうがん)帯であり、ここの葛は、金渓川のものとは大違いで葉も薄く茎も細くやせ、葛の花の色も香りも薄いので、牛に餌として与えても、あまり喜びません。
田圃の稲刈り、脱穀作業が終わるとすぐに麦播きが始まります。麦播きは耕土を唐鋤きで起こす仕事で、牛の力を借りなければなりませんでした。花の咲いた葛を食べさせた牛の力の強いこと、殊に二歳子の若牛は胸巾、背巾が広がり肉もついて一人前の成牛になりました。
明治のはじめアメリカの土木学者が日本の葛の特に根張りの旺盛さに注目し、荒廃地やダムの保全に海を渡っていったという話もあります。