第379回
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  門脇欽吾先生の事蹟
文 郷土史家 佐々木 一

 門脇欽吾は慶応二年(一八六六)一月二十八日、員弁郡宇賀村神谷家(現いなべ市大安町宇賀)に生まれました。初歩の読み書きは隣村の石槫南村の岩花善兵衛に学びました。明治七年(一八七四)石槫南学校が創立されたので入学しました。そして明治十七年(一八八四)、大鐘(現四日市市大鐘町)にある浄円寺の大賀賢励(旭川)が開く私塾半学舎へ漢文学を学ぶために入塾しました。翌年北山の丘に、師の旭川の記念碑が門人千数百名の懇志により建立されました。
 欽吾は大鐘の半学舎に入門して花山大安(遍崇寺)、佐々木中成(欣浄寺)と机を並べて親しく学び、なかでも花山大安は真宗大谷大学の教授になり、終生深い交誼のあった友でありました。
 明治二十二年の六月、欽吾は縁あって梅戸村(現いなべ市大安町梅戸)の門脇家に見込まれて、娘ちゑの婿養子となりました。翌二十三年は員弁郡中里村(現いなべ市藤原町中里)の中里小学校の校長に初めて就任しました。また同二十七年には日清戦争が起こり、朝鮮に従軍し看護長を命ぜられました。同二十八年四月、講和の調印がなったため帰還し、同三十年四月、隣村の大長小学校長に迎えられました。
 同三十五年、欽吾は文部省の中等教員検定試験に合格して、翌三十六年に愛知県津島に設立の愛知県立第三中学校教諭に任命されました。同四十年には遠く福岡市早良(さわら)に新設の福岡県立福岡工業学校の教諭に赴任して、次は同四十四年三月京都府福知山市土師(はぜ)に設立の府立福知山中学校の教諭を命ぜられました。その後大正六年の三月に、十五年間勤めた中等学校教諭を辞任して三重県に帰りました。
 この大正の初めごろは、三重県下の各郡に郡立農学校の設立の熱心な気運が起こり、それにより建てられた員弁、三重、鈴鹿、一志、飯南、度会、多気、名賀郡の八郡には郡立の学校が建てられました。これらの農学、実業学校は県民の要望で郡立から順次県立に移管の動きが見られました。
 大正七年、多気郡相可への多気実業学校新規設立の案件では、欽吾は多気中等学校での教諭の経験を認められて建設委員の委嘱を受けました。直ちに敷地の造成、校舎の建築が完成して、同十年多気郡立農学校と実業女学校が合併して、三重県立多気実業学校となり、同十一年四月に門脇欽吾は校長に任命されました。
 この年の夏に門脇家のある梅戸村の南の三重郡竹永村永井区では、南川伊左衛門ほか六名の委嘱を受け、同村南郊の前野の丘に記念碑を建立の企てがありました。欽吾はその碑文の撰の依頼を受けて「古今検地の制、未だ遍きに無(あら)ず、丈冊以って證すべき無き故に僻陬(へきすう)の山野往々に紛淆(ふんこう)免れず」に、はじまる漢文調の碑文を草しました。さすが大鐘の半学舎大賀賢励の門下生であった門脇欽吾先生の作です。
 この前野をめぐる争論は、貞享四年(一六八七)の昔から隣の保々の四カ村と、明瞭な境が確定できず、絶えず出入りの争いを繰り返してきたものです。そこで永井村は明治二十年になって東京大審院へ上訴して審判を仰ぎ、その結果、永井村の訴願が聞き入れられて勝訴となり、二百年の争論に決着がつきました。
 大正十四年から昭和六年十二月まで、欽吾は大長村の村長に就任しました。その後は拙庵と号して和歌、俳句を嗜む悠々自適の日を過ごし、殊に清水梅荘、花山大安の旧友と深く交わりました。昭和九年(一九三四)十二月十七日病気にて死没、行年六十九歳でありました。

永井の前野には、この争論を後世に伝えるべく、門脇欽吾の文が刻まれた記念碑が大正十一年に建立されました。