第380回
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  正念寺住職の修学
文 郷土史家 佐々木 一

 西菰野の正念寺の開祖は、山城国市田郷(現京都府久世郡久御山町市田)の市田城で二千七百石の領主でした。しかし元亀三年(一五七二)足利勢と織田信長の攻争の渦中に巻き込まれたので市田城は落城し、領主は近江、美濃を流浪して伊勢国へ逃れ、菰野へ落ち延び、僧になりました。中菰野に庵を編み、はじめ真言宗仁和寺派の直系になり、天正十二年(一五八四)明元と名を改めました。その後、太閤秀吉の代になったときに浄土真宗に転宗して、西菰野の獅子吼峯へ移り本堂を建て、寺名も正念寺と改めました。
 その後安永元年(一七七二)十月に出火して本堂、庫裏、鐘堂、山門等残らず焼失しました。そこで寛政三年(一七九一)に焼失諸堂の再建を行いました。再建された場所は現在正念寺のある場所で、天正十二年以来二〇六年ほどあった獅子吼の山中から移転しました。
 この寛政年代の住職は八世大龍で、この大龍は智積の西勝寺教定の子でありました。大龍の生まれた西勝寺は、西本願寺派の北勢きっての大寺でしたので、その応援助力があって寛政三年に本堂の再建が叶えられたと思われます。
 話は大龍から二代後の十世龍応にかわります。正念寺十世龍応は寛政四年に生まれて、天保三年(一八三二)四〇歳のとき志を立て、越後国頸城(くびき)郡姫川原村に「三葉勧学精舎」と称える浄土真宗西本願寺系の寺で、正念寺という同名の寺があることを知り、ここで修学せんと思い立ちました。三葉勧学とは、江戸後期に六世興隆の代からその子僧朗、そして慧麟の親子三代の住職は本山西本願寺の学林の教授職であって、越後国では「三葉勧学」の名でよばれていたことによるものです。この広い境内に「崑崙舎(こんろんしゃ)」という学寮を建て門人を寄宿させて、真宗学を教えていました。
 姫川原の正念寺については、新潟県史編さん資料中の「定慧社衆名班録並序條録」「正念寺三葉勧学門人録」の提示をまず受けました。その根本文書の確認のため、新潟県妙高市姫川原二七九番地の鶏冠山正念寺第十四世住職、梨本興正師を訪ね参詣しました。寺は長野から直江津へ至る北國街道筋に面し、姫川原の地名は関川沿いに位置しているからです。寺は山門の前に「三葉勧学精舎」の大きな碑が立ち、正面に本堂、右手に庫裏、本堂の左手に鐘楼、書庫と並び建ち、書庫の土蔵の中から天保三年の和綴じの門人録二冊を出してきて頂きました。住職は折から報恩講の仏事に出寺、老坊守にお立会いの上、文書資料を拝見しました。
 書名には「後越正念寺釈僧朗誌」とあり、「天保三年(一八三二)の夏」とあって興隆の次の僧朗の書かれたもので、その中には
「「勢州菰野正念寺新 慧應」
「勢州三重郡菰野正念寺住 細少」と書かれています。この書で正念寺とある細少は正念寺十世龍応であり、新 慧応は同十一世大應と判じられます。姫川原の門人録の記録と菰野正念寺の過去帳と歴代名を照合すると名の相違が見られますが、これは修行中の名と住職名との改名も応々にあることによります。
 この姫川原の「三葉勧学精舎」への修学は天保三年に伊勢からは三人、ほかに伊賀から三人、近江から十三人、美濃から八人、四国から三人、九州から五人が数えられます。越後や近い関東の人数を数えますと大変な数になります。
 菰野の正念寺から越後の姫川原まで百里余(約四百キロ)の距離があります。一日十里の行程で十日もかかる遠い道のり、しかも草鞋がけでよくも出かけていったものです。
 その修学の旅日記は正念寺にも残されておりませんので、善光寺詣りの木曽路かそれとも日本海べりの北陸路か、その心意気と苦労が思いやられてなりません。

新潟県妙高市大字姫川原にある正念寺。門の左側の石碑には「三葉勧学精舎」の文字が記されています。