第382回
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  京都の功運院
文 郷土史家 佐々木 一
功運院に今も残る五輪塔。土方雄久とその夫人、雄氏のものです。

 臨済宗天龍寺派の寺院である功運院は、京都市北区の等持院町にあります。その付近は洛北の名所衣笠山の裾に広がる小松原で龍安寺、仁和寺、等持院などの由緒ある古寺が甍を連ねております。
 この功運院は、菰野藩の初代藩主雄氏が父雄久の菩提寺を弔うために創建したものです。雄久は織田信長に仕え、その二男の信雄の重臣となり、後に秀吉、家康にも仕えた戦国の武将でした。
 雄久は長男の雄氏と共に天下分け目の関ケ原の合戦には、家康の密命を受けて加賀の前田家の軍勢を加賀に留め置く裏工作を行い、それが功を奏して雄久は能登と越中で一万二千石、長男の雄氏は伊勢菰野と近江で一万二千石を与えられ、親子で大名に取り立てられました。
 雄久は磐城の窪田に城を構え、江戸の桜田門近くに屋敷を拝領していて、慶長十三年(1608)に江戸で病没しました。雄氏はその遺骨を分骨して京都の衣笠山の裾に葬るべく菩提寺の建立を思い立ち、等持院菊齢禅師の下で修行中であった雄氏の末弟の三清和尚を開基にして、等持院の西隣に功運院を創建しました。それは雄氏が菰野城に入封した慶長五年(1600)でありました。
 本寺の等持院は、足利尊氏が京の室町に幕府を開き、その近くに寺を建立して吉野で崩御の後醍醐天皇の慰霊と南北朝の争乱のために戦死した多くの武将と兵の供養のために室町の御所から寺院を移して衣笠山の麓に創建したといいます。そのあと足利歴代の将軍が金閣、銀閣に倣い、庭園を築き、足利将軍家の菩提所とした大寺であります。
 足利氏が没落してその後、太閤秀吉の遺命で秀頼が等持院の仏堂、境内の庭園を修復してその余慶を得て再建した功運院も伏見城の書院を移した豪華な堂であったと伝えられております。
  菰野城の雄氏も二世雄高が生まれると、国許の政(まつりごと)は雄高と玉雄院に任せ、雄氏は京都の武者小路の館に住居して寛永十五年(1638)、六月二十八日京都の館で病没、父雄久の傍らに葬られました。そして功運院の住職となった三清和尚が雄久、雄氏の菩提所を護持することになりました。
 天龍寺から来寺した住職耕雲老師が明治三十一年(1898)に書いた「備忘録」が残されています。ここに明治の功運院の様子が記されていますのでご紹介します。
  『嘉永五年鐘山和尚が本堂を再建立する屋根を桧皮葺とする。明治維新の際、土方雄永京都の守護を命ぜられ、功運院に陣を構える。その後功運院の維持管理を一般の人に委嘱する。等持院の塔頭、大円院が功運院境内にあって本寺の等持院に吸収されることになり、その玄関を譲り受けて功運院の玄関と式台にする。
 明治二十八年龍淵和尚土蔵の側に井戸を掘り飲料水に当てる。完渓和尚は西側北側の竹薮の竹を伐り竹屋に売却してその代金を積立寺の維持費に充当する。』
 功運院には雄久とその夫人、雄氏の三基の墓碑を中心に7基の五輪塔が並んで立っていますが、文字は風化して読みにくくなっています。五輪塔に書かれている内容は次のとおりです。

  • 雄久
    功運院前河州大守創叙建忠大居士
    慶長十三年(1608) 十一月十二日
  • 雄久室
    宗昌院殿家山桂室大姉
    寛永九年(1632) 六月八日
  • 雄氏
    見性院殿前丹州大守監翁宗固大居士
    寛永十五年(1638) 六月二十八日