第384回
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  蛭塚
文 郷土史家 佐々木 一
写真中央部に草の生い茂った所が蛭塚です
写真中央部に草の生い茂った所が蛭塚です

 田口の旧巡見街道沿いの右手、また村の氏神であった穂積神社跡の東方の水田には、中ほどに土をこんもりと盛ったところがあって、そこを「蛭塚(ひるづか)」と呼んでいました。蛭塚の北方は「堂垣内(どうがいと)」と呼ばれ、水田に囲まれた仏堂の跡があり、そこには表面が平らで直径1b余りの仏堂の柱を支える基礎石がそのままの姿で残されていました。面積は三畝ほどで、その石と草地の中心に「堂垣内農道竣工記念碑」と刻まれた巾一尺、高さ六尺ほどの石柱が建てられていました。
 この「蛭塚」の周辺には「四ツ辻」「梅ヶ岡」「三百坊」「里」の小字地名が残されています。この小字の名は、江戸時代から前の中世時代の土地に付けられた呼び名で、土地の一筆ごとに固有のいわれ、由緒がありました。
 明治初め「戸長役場」が村に置かれていた頃、村の行政を担当する戸長と総代の責任で、年貢が米納から金納に変わる租税制度の確立を企てるために調査が行われました。測量方法を県が定めて戸長役場へ通達し、専門の測量に長けた人の指導を受けて、村ごとに一斉に行われました。田、畑、宅地が一筆ごとに地番を付けて野帳にその一筆の姿図を描き、その面積を三角法の測量で求め、方位を杖状丸型磁石で調べるなど、伊能忠敬が行った方法で記帳して小字地図を作り上げました。そして一筆毎の地価と地租の額が算定されて土地の権利書が作られ、課税の基本の証書となりました。お上の行うことは公平無私が信条ですので、その杓子定規の方法が民衆の方では理解できず、問題も生じました。
 田口村では、このとき昔からの村人が呼び名で付けていた個々の呼称を正直に守り、明確に記録してその由緒ある名を残しています。いまも区長の手許に残る絵図は、国の法務局にある地図を作るときの資料となった大切なものであります。
 蛭塚のお話が小字名策定の話になり難しくなりましたが、元へ戻って村の伝承譚に移ります。
 田んぼの真ん中に土饅頭型の土盛があってその上に草が生え、田植えや田の草取りなど農作業の邪魔になっていました。しかし鎌で草を刈ったり、鍬で土を削ったりしてはならない、と言われたことから土饅頭は禁忌の対象になり、手を掛けてはならないものとして残されていました。
 蛭は盛夏に水田や湿地に自然と湧いて足に吸い付く生き物で、血を吸うので嫌われものです。蛭塚の呼び名も、塚に寄り付くな、手を掛けるな、といった禁句が、嫌われものの蛭に転化したものだろうと思われます。
 古い昔は家の長老や村のためになった人を、目に付きやすい田んぼに塚を設ける遺風がありました。その田を塚田と呼んでいます。丁寧に土を盛り葬った塚も、だんだんと歳月が経つと名も薄れて忘れられ、塚田が田口の様にただの蛭塚のような名に変わってしまいます。田口の場合も、すぐ側に「堂垣内」の名の残る寺跡が残っていたので、このお寺のお坊さんのお墓の様に思われます。
 これが明治になりますと村ごとに共同墓地が設けられ、墓地には人を埋葬する場と火葬の場が設けられ、そこに付属して牛馬、犬猫を埋葬の場を定めて「牛三味」と呼んでいました。