第385回
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  朝明渓谷のブナ清水
文 郷土史家 佐々木 一
この大石の下から水がわき出でいます
この大石の下から水がわき出でいます

 朝明川の源流を占める朝明渓谷の玄関口である「一の瀬橋」の近くにある千草発電所では、水力でタービンを回転させて電気を起こしています。この近代施設は早や明治四十年に始まっております。そしてこの朝明川には、城の石垣の様に堅固な石造の堰堤が、いくつか上流へと築かれています。それに続く小谷の砂防堰堤は、その名も縄だるみ堰堤といい、美しい曲線を描く千草石工の鑿の跡です。
 いま青い新芽を吹くヤシャブシは、縄だるみ堰堤と同時代の「柵み工」施工の際に土砂止めに植えられた名残りの植物で、黒い可愛い実をつけています。渓谷の右手に位置する庵座の滝は、御嶽教の行者が水垢離を取ったところです。さらに歩みのぼると、道は二股に分岐して右を取れば羽鳥峰峠へ進む道です。羽鳥峰は名の通り優しい穏やかな山、そして広沢の沼沢地にはニリンソウ、リンドウの群落が見られます。二股の登山道を左へ取ると、伊勢谷へ入ります。根の平峠をきわめると、スズタケの笹の群落で、名の通り笹原の続く平坦な道です。ここをさらに左へ進むと伊勢谷のブナ林です。
 この伊勢谷の中央部に大きな二枚の岩石が積み重なっています。大石の下に一bほどの空洞があって、その穴の奥からこんこんと清水が湧き出ています。その水量は手の平にすくえる位の量ですが、広い伊勢谷で喉を潤すことのできるのはここだけで、貴重な水飲み場であります。
 この泉の上部には「アシウスギ」という珍しい木が地を這うように生えています。この木は多雪地にあるスギ科の植物で、雪の重みで地面に幹が匍匐して曲がった姿で生きている、見るからに健気な植物であります。
 そしてこの「ブナ清水」の名の起こりである、ブナの巨木が現れます。両手を広げても三抱えほどもある樹で、耳を当てると、人の胸の鼓動の様にブナが地中から水を吸い上げる音が聞えます。ブナはこうして一所懸命に水を吸い上げて、自分の体に貯めこんで雨の少ない干ばつに備えているのだそうです。そしてブナ林の下にはシャクナゲ、ベニドウダン、ミヤマシキミの低木が手をつなぎ輪になっているようで、自然界の造物主の営みが表れたものと思われます。
 その上ブナの若木の芽吹きの美しいこと。尾根に咲くアカヤシオ、シロヤシオのツツジ科の花も美しいですが、ブナの芽吹きは芽の穂先が銀色に輝き、そのうち金色に変わります。成長の勢いのあることから、遠目で眺めると気高く美しい感動を覚えます。この伊勢谷のブナ林はこれからの若樹の多い所ですので、この林の一層の成育を願うものです。
 このブナ林から上部の尾根筋は、国見岳の頂上から通じてきた尾根筋の北の端に花崗岩が一枚の岩盤となって伊勢谷の上に被さっています。しかもその広い岩盤の上に、キノコ石と呼ばれる本物そっくりの奇岩があり、進化の神の見事な仕業に驚くばかりであります。そしてこの伊勢谷大石から南の国見岳へ続く尾根筋は、シャクナゲが蕾をつけて、それは見事な花街道であります。伊勢谷から西の根の平峠へ続く道は、中世の千草街道です。ここは信長も通った歴史の道で、甲津畑から近江八幡へと延び、伊勢と近江を結ぶ重要な交易路でもありました。

ブナ清水の原生林
ブナ清水の原生林