第386回
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  博労 伊藤武吉
文 郷土史家 佐々木 一
宿野の墓地にある伊藤武吉の墓
宿野の墓地にある伊藤武吉の墓

 大字宿野の村は、明治初年には七十二戸、人口三三〇人、牛二十七頭の村勢でした。中世の宿野村は集落の周囲に土居を築き、その外側に濠が堀られていました。さらに目隠しのために、濠の縁に女竹を植え、なおも中心の館の保守のために土居が築かれる二重の備えとなっていました。近頃まで、郵便屋さん、新聞屋さんは配り物に難儀をしておりました。
 中世の戦国動乱の時代を生き延びてきた古い集落は、このような自衛の跡を残しています。代々博労(ばくろう)をしてきた伊藤武吉の家も、元は城垣内に居住していましたが、明治になってから四日市街道沿いに移り住み、住宅の東に畜舎を二棟ほど設けていました。博労は農家が飼養する農耕牛を売買、交換する仲買人でありました。
 昔は田植え前の水田の荒起こし、代掻き、秋は麦播き前の刈田の耕起、畝立て作業時には牛の力を借りました。農家にとって牛は宝物、病気や怪我の無いように気をつけ可愛がって飼いました。この牛が老齢になると、博労に依頼し代わりの牛に交換してもらいました。また正月前ごろに、飼い葉の中に麦や麸の濃厚飼料を混ぜ与えて太ってくると、博労に見せ品定めをしてもらい、飼い葉賃として応分の金をもらい、新しく代え牛を迎えました。
 博労が回る農家は自ずと決まっていて、博労はそこを「厩先」といっていました。博労は常に農家を巡回して厩舎の中を覗き、牛の耳、鼻をさすって熱の有無や、太り具合など牛の健康状態を確認しました。また飼い葉桶の中などの吟味をして、餌についても農家に助言を行いました。博労は牛の医者であり、栄養士でもありました。
 菰野をはじめ、伊勢地方の農家は但馬牛を好んで飼いました。それは性質が温和で人に良く懐き、顔が優しく角前もよく、そして皮膚が柔らかで美しい特質を持っていました。
但馬の山里で生まれた子牛は、母牛の乳を飲み一歳位で美方、城崎(きのさき)、出石(いずし)、豊岡、養父(やぶ)、朝来(あさご)の牛市に出されて、各地へ引き取られて行きます。
伊勢地方に来る子牛は、昔は歩いて、少し前は貨車で大阪を経由して和歌山県の田辺まで来ます。ここでも牛市を経由して、田辺付近の農家に引き取られます。紀伊地方は温暖で雨が多いので、草は青くて柔らか、その青草を腹いっぱい食べて丈夫な骨格が整います。冬になると叺(かます)に土を入れて、重いものを引く訓練をします。春になると鞍と首木をつけて唐鋤をかけ、農耕牛としての訓練です。真っ直ぐ歩く練習、そして行け、止まれ、右左に方向転回の使役、言葉と綱さばきを覚えることなどです。こうした訓練を根気よく繰り返し受け、百姓牛に仕込まれました。
そしてまた田辺の牛市を出て、伊勢の国から出迎えた武吉博労に引き取られ、亀山行きの専用貨車に載せられて、田辺を出発します。亀山駅へ着くと、宿野から来た追い子の若い衆が、綱を持って待っていました。博労が一人の若い衆に牛三頭ずつ割り当て亀山を出発します。途中の伊船で牛に餌をやって一服して、次は坊主尾の南の峠で休憩して水を飲ませ、宿野峠を下ります。金渓川を渡り、宿野の武吉博労の畜舎で、待ち受けていた飼い葉を食べて、晴れて伊勢牛になり休みました。翌日は定められた農家の厩舎へ連れられて行き、その家の家族になりました。
牛は嬉しいときは鼻の穴を広げて喜び、悲しく辛いときは大きい目に涙を一杯ためて頭を垂れて憂います。二、三年その家に飼われると肉牛になります。博労に引かれて厩舎を出るときは一声鳴き、藁沓を履くことを嫌いました。