第387回
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  音羽の三尾高溜
文 郷土史家 佐々木 一
音羽の三尾高のマンボ
音羽の三尾高のマンボ。上溜と下溜を繋ぐ手掘りの導水路です。

 菰野富士(標高三百メートル)の裾野に広がる江野高原の東江野の北側を流れる鳥居戸川、その左岸に一際高い独立峰の三尾高(みおこう)(標高百四十メートル)があります。
 三尾高及びその一帯は、太平洋戦争の終戦までは陸軍演習場で、一段高い独立峰に高く赤旗が掲揚されて、立入禁止の危険信号がありました。現在の県道千草永井線から西側の字竹谷からは千草地であります。
 三尾高がある音羽地区は古くから音羽村と称し、古代、中世と国見岳の山腹にあった天台宗の冠峰三嶽寺の寺領でした。村から寺に籠る修行僧の兵糧を供給していた様で、音羽村はその寺の庇護を受け、村は小さくても他からの侵入を受けず平穏に村を維持して室町期の戦乱時代を迎えました。それが信長の天台嫌いに遭い、三嶽寺は滅亡してしまいました。
 それが関ケ原の戦いの後、隣の千草村は桑名領に、潤田村は菰野領になり、音羽村だけが天領に組み込まれました。江戸初期には村の境界の線引きが厳しく行われ、山の入会権、水利権も権利の確認主張も訴訟沙汰になり、音羽村は山の入会権も水利権も失いがちになるような状態でした。
 しかし米を作る農家にとって、水こそ一番大切ないのちのもとであることから、水源となる溜池の築造を計画しました。音羽村は北の丘陵地に住居を構え、南の三尾高の丘陵地との間の東西に細長い耕地が米作りの場となっていました。そこで、築造場所にはこの三尾高が選ばれ、四日市代官所へ願い出た後、溜池造りが行われました。
 陸軍の演習場時代に指揮所になっていた旗竿高地の北側に東西の尾根が走り、その間に瓢箪型のくぼみがありました。そこが自然の堰堤の働きをしてくれて、上の溜池は標高百十二メートル、面積二千二百十四平方メートル、下の溜池は標高百七メートル、面積四千二十九平方メートルの規模であります。その昔はその上の標高百二十メートルの場所に斧研(よきとぎ)といわれる水源池があったそうです。当町に溜池は二十五基ほどありますが、その多くが大小、または上下があって、この三尾高溜のように上溜が湧水や天水を下の大溜に導水し、貯水する仕組みになっています。
 上下の溜は連絡水路で繋がっていて、上溜の堰堤をマンボ(トンネル)でくり抜いて下溜まで通水できる工夫がなされています。このマンボの形は馬蹄形で、上下一・五メートルほど、大人が腰を屈めて潜るほどの大きさで、約四十メートルほどの延長です。両方から掘り進めたらしく中心で一メートルほどの食い違いができております。この溜の所有権は、先祖代々保存管理してきた音羽の伊藤さんの名義になっております。
 現在は上溜の水源地が農業構造改善事業によって埋められ、導水路も欠損しています。また肝心の下溜も貯水調節用の樋管が老朽破損して、本来の溜池の機能は失っております。しかし、今も下溜には降雨による天水が満々と水を湛えていて、モロコやドジョウなどの日本固有の希少生物の宝庫になっています。