第388回
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  愚極紹妙和尚
文 郷土史家 佐々木 一
東禅寺
松阪市藤之木町にある東禅寺。見性寺の僧、愚極和尚が迎えられました。

 菰野藩では、寛永七年(一六三〇年)に城の南の山すそに広幡神社を勧請し、次は菰野藩土方(ひじかた)氏の菩提寺を創建して、藩の信仰の基を固めることとしました。第二代の藩主雄高は、その場所と初代の開山を誰に依頼するか、実母の玉雄院(ぎょくゆういん)に伺いを立てました。信長の孫にあたる母は、「さすれば織田家とゆかりのある熱田の龍珠寺(りゅうじゅじ)の良嶽(りょがく)老師に相談して見よ」とのことであったことから、早速家老を熱田へ遣わして良嶽老師に伺ったところ、老師の印可を受けた弟子の紹省三霊(りょうしょうさんれい)を推挙してくれました。
 師の良嶽老師の命を受けた三霊は、弟子の越伝(えつでん)と愚極(ぐきょく)の二僧を従え、菰野へ来て、藩主雄高と玉雄院に目通りを許されました。そして創建の菩提寺の規模、寺地の企画を聴聞して、直ちに臨済禅風の方丈、庫裏、山門の諸堂の建築と地形のあらかじめの墨を引き、建設工事に着手しました。三霊が定めた力尾山は、菰野城の辰巳の方角で当時恵方の方であって、また旧の薦野城(こものじょう)の跡でもありました。
 その後、仏堂の建築の上事は随従の弟子越伝と愚極が進め、そして菰野藩と領民の上下心を合わせ工事が進められました。寛永二十一年の春、見性寺(けんしょうじ)は立派に完成して、力尾の山桜の花の下で三霊の開山の晋山式と落成の慶讃法会が賑々しく挙げられました。
 この時、三霊に随従の越伝は二十九歳、愚極は十九歳の若さでありました。殊に越伝は鋭気煥発、三十二歳のとき京都の本山妙心寺に上り、第一座を与えられて衆僧の前で「伝心法要」の講義を行いました。承応二年(一六五三)長崎の興福寺へ中国からの渡来の僧、隠元(いんげん)が来ると聞くと遠路はるばる長崎まで会いに行きました。
 臨済禅は鎌倉期の文治年間、栄西(えいさい)が二回も中国に渡り、帰って博多の聖福寺(しょうふくじ)、京都に建仁寺(けんにんじ)を建立して武士に禅宗の普及に努めましたが、その後南北朝、足利の戦乱期が長く続いて、衰退の風がありました。越伝はこれを憂い、臨済正統を伝える隠元の元へ走ったのでありました。
 こうした風で三霊禅師が開かれた見性寺は、渡来の黄檗僧と新しい黄檗禅を知るための若い修行僧の出入りの往来が頻繁となりました。
 兄弟子越伝の活動と、その留守を守る弟弟子の愚極は師の三霊禅師の教えを誠実に守り、寺の仏事と掃除、維持管理に努めていました。それが不幸にも寛文九年(一六六九)本堂から不慮の出火、萱葺屋根の堂は忽ち焼失の災禍に見舞われました。
 俄かに災事に遭遇した愚極は、法類の熱田の乾徳寺(けんとくじ)と稲葉地の凌雲寺(りょううんじ)に相談しました。殊に凌雲寺の瑞渓(ずいけい)和尚が愚極の嘆きを聴聞して見性寺を預かり、見性寺三世の住職の座に就きました。一方愚極は、瑞渓に見性寺の護持を依頼して延宝元年(一六七三)退席しました。
 同じ伊勢の松阪にある藤之木村には、弘法大師ゆかりの沓掛けの清水と十一面観音像の小堂がありました。この村は飯高郡内の紀州藩領で、村高八七一石の豊かな村でありました。この十一面観音を本尊として、新しく一宇建立の議が起こり、菰野見性寺の臨済僧愚極が開山として迎えられました。
 延宝元年に菰野見性寺を出て、藤之木東禅寺を興して在住すること五年、愚極は延宝五年の春、東禅寺を離山しました。愚極の生まれは遠く信州の飯田の長久寺で、この寺も飯田城主二万石の堀氏の菩提寺でありました。天和二年(一六八二)九月二十日五十六歳で示寂、長久寺墓地に静かに眠ります。