第389回
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  高槻五兵衛光督
文 郷土史家 佐々木 一
高槻五兵衛光督の墓碑
四日市市小杉町の共同墓地に残る高槻五兵衛光督の墓碑。

 寛政六年(一七九四)九月十二日、菰野庄部の広幡神社庄部お旅所境内で、江戸大相撲の興行が行われました。四代目の横綱谷風関と五代目横綱小野川関をはじめ、東西の力士六十余名が、江戸大相撲の取り組みを行うのですから、菰野藩領十カ村の村人は大相撲が田舎の菰野で見られると大喜びをしました。
 この江戸大相撲の開催を許されたのは菰野藩士七世の雄年公(かつなが)で、平素から水沢村出身の力士伊勢浜をお抱え力士にして、扶持米を与えていました。そのころ伊勢浜が、江戸大相撲の地域別頭取の伊勢頭取に挙げられていました。そのこともあって、伊勢の菰野城下で江戸大相撲開催の運びとなりました。
 菰野城下の東町では、力士一行大勢の宿泊、食事の受け入れに旅館をはじめ、寺院の瑞龍寺、明福寺、西覚寺の協力を願い、大勢の力士の応対に当たりました。相撲場の庄部お旅所は白砂青松の風致よろしき所で、西側を巡見街道が通り、東は吉沢から大矢知、桑名へ向かう街道が通じる交通の要衝であり、多くの人が相撲見物に訪れました。この庄部お旅所には、この相撲が開催された寛政六年とその少し前の寛政二年の西方小野川才助と東方谷風梶之助の名が記された番付額が保存されています。
 藩主の雄年公は寛延四年、(一七五一)江戸愛宕坂下の菰野藩邸に生まれて、宝暦八年(一七五八)八歳で跡目を継ぎました。藩主が若いため、藩政の執行は年寄役(家老)の高槻五兵衛光督(みつまさ)が当たっていました。雄年は幼少年期は菰野藩の龍崎守中に読み書きを習い、青年期は細井平州に儒学を、その門弟の三井親和に書を習い、篁路(こうろ)と号して書は衆に秀でていました。しかし、雄年公は相撲をはじめ、愛禽などの趣味も多いことから、藩の出費も多くなっていました。明和七年(一七七〇)雄年は藩財政の多大な出費を知り、藩の年寄役の高槻五兵衛にその責任を取らせ、隠居を命じました。
 高槻五兵衛の先祖は次郎兵右衛門といい、京都に隠居をしていた初代藩主雄氏(かつうじ)公の第二夫人の縁につながります。高槻氏は雄豊公の代に石高五十石で菰野藩に召抱えられ、以後正眼寺が高槻氏の菩提寺となりました。
 高槻氏は土方家譜代の武士ではなく、縁故の誼(よしみ)で仕官した家柄であったことから、藩債の累積における糾弾を藩内において、五兵衛が一身に責めを負うことになりました。高槻五兵衛は三重郡小杉村(現在の四日市市小杉町)の真宗本願寺の持光寺を退隠先としました。この寺の住職の許へ高槻五兵衛の娘が嫁いでいたことから、持光寺内に隠居所を設けて、五兵衛はそこで謹慎生活を送ることになりました。
 持光寺の創建は、信長の伊勢平定後、信雄が小杉に一時陣を設け、その跡地を持光寺西円に与え、西円は天正元年(一五七三)頃に持光寺を創建した、と寺に伝わっています。この持光寺は通寺四カ寺、末寺十一カ寺、触下三カ寺を有する大寺でありました。しかし持光寺も明治二年(一八六九)の本山の宗制改革で末寺が本山の直系となったことから、中本山の権位を失うことになりました。そこで持光寺は小杉の北の垂坂へ移ることになりました。
 その後世は移り変わって、昭和五十年に小杉の元持光寺跡の藪の中から、
「寛政元年十月十一日居易軒心嶺宗傳居士」
「俗名高槻五兵衛光督」

と刻まれた墓碑が発見されました。現在は小杉共同墓地に移されて大切に安置されています。