第391回
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  竹成の絵描きばあさん 伊藤ふみ
文 郷土史家 佐々木 一
伊藤ふみさんが亡くなる十日前に描いた孫の似顔絵
伊藤ふみさんが亡くなる十日前に描いた孫の似顔絵。孫へ「サンキュウグッドバイバイ」と書かれています。

 おふみばあさんは、大正三年(一九一四)二月十八日に竹永村竹成で生まれました。父は千種初次郎、母は梅乃といい、生家は代々建築業を営んでいました。生家近くには室町中期作の大日如来像を安置する大日堂と、その境内に石造の五百羅漢像が築山に見事に居並ぶ清浄な公園がありました。
  童女の頃、おふみは祖母に連れられて、五百羅漢の頭を両手でなぜて遊んでいました。この村で生まれた子どもは、この羅漢さんの慈悲に抱かれて大きくなりました。
  おふみはやがて学業を終えて、お裁縫とお花の稽古ごとを習い、母の手伝いをしていました。そして縁あって、同じ村の食品業を営む酒四商店の伊藤賢に嫁ぎました。店は千草から東へきて朝明川沿いに東海道の富田へ通じる八風街道に面し、また四日市行きのバス停留所も近くにあって、交通の要の土地でありました。おふみの店は、味噌、醤油(しょうゆ)、酒をはじめ、富田浜港で水揚げされた鮮魚や、野菜、食料も販売する店でありました。
  その店へ嫁いで来て九年目に、早や夫の賢が三十五歳で亡くなる思ってもみない不幸に遇うことになりました。おふみと夫の間には子が男二人、女一人あり、そこへ義父と義母が残されました。この老いた二人の両親の手助けを受けて、店の経営と家事、育児も行わなければなりません。夫の賢の死亡は昭和十七年、太平洋戦争の真っ只中、人手は無く、物資は統制と配給、そして続く終戦と、おふみのかつて経験したことのないことばかり、歯を食いしばって頑張りました。そして義父を昭和二十九年に送り、続いて義母を八十五歳で送ると、代わって息子夫婦が店の切り盛りをやってくれるようになりました。
  商売も軌道に乗り、心配も無くなった頃、おふみは五十歳になっていました。そこでやっと自分のこれまでの過ごし方を振り返ることができました。おふみは、ふと気がつくと店の前の大日堂の前で両手を合わせて拝んでいました。如来は五百年の年月を経ても変わることなく、子どもの頃と同じ、しかもお顔に微笑みさえ浮かべて見えました。今までじっくりと如来のお顔を拝して手を合わせることも打ち忘れて、あくせく日々の生業に追われていた事に、はたと気がつきました。そして境内の小山に並ぶ羅漢さんも、世の有為転変にびくともせずに端座しているお姿にも胸を突かれるものがあり、大切なことに気づかせてもらいました。
  それからは、おふみは一冊のスケッチブックを求めて、まずそれに自分の顔と合掌する姿を鉛筆で描くことを励行しました。絵を描くことを習ったことはありませんでしたが、おふみの父親は大工で、毎日使う墨壷の墨で板の木端に上手に人や動物の顔を手早く描く技を持っていたので、それが娘のおふみに受け継がれていたのでありましょう。
  自分の顔だけでなく孫の顔など、様々な人を描くようになると、店の前を通る子どもたちも、「お絵描きばあさん、私を描いて」とおふみは絵を描くことをねだられることが多くなりました。しばらくすると「お絵描きばあさん」と呼ばれるなど、村の人々からもすっかり親しまれていました。
  おふみの描いた絵は残るものは五十七枚もあり、今も大切に保存されています。その特徴は、人物は大きな目と合掌印、そして背景にお日様と飛ぶ小鳥と花が丁寧に写生されています。このお絵描きばあさんも平成三年九月二十八日に力尽き、七十七歳で浄土へ還生されました。