第392回
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  智福寺の玉田老師と梅戸の慰霊碑
文 郷土史家 佐々木 一
平和之礎の碑
小島の東、梅戸の土生神社にある平和之礎の碑

 朝上地区の小島集落の鎮守耳常神社(みみつねじんじゃ)の西側を通る県道田光梅戸井停車場線は、中世からの交易路、八風街道であります。この街道が、小島の丘陵地から梅戸(うめど)(いなべ市大安町梅戸)の平地へ下る北側の先端で、土生(はぼう)神社の境内森が黒々と見えてきます。この梅戸集落の鎮守、土生神社も、小島の耳常神社と共に延喜式内社として、千百年の歴史を誇る神社であります。
 土生神社の表参道は、三岐鉄道の梅戸井駅からで、高い石段を登り、一の鳥居から拝殿、本殿と通じております。この石段の右側に大きく高い碑が建てられています。碑は根府川石が用いられ、高さ五・一メートル、巾一・七メートルあって、表に「平和之礎」と「黄檗(おうばく)前管長玉田(ぎょくでん)書」と刻まれております。碑の裏に「護国英霊碑六十二名合祀 梅戸自治会 梅戸遺族会 昭和三十一年三月」と記されています。先の太平洋戦争に、この梅戸だけで六十二名の戦死者の方がありました。終戦から今年で、早や六十五年の平和の歳月がたちました。
 この平和の碑の筆者「黄檗前管長玉田」と署名のある山田玉田老師の事歴を訪ねます。老師は、愛知県弥富市の蓮行寺という真宗のお寺に明治四年に生まれました。同十三年、春日井の黄檗宗(おうばくしゅう)慈眼寺の梅門和尚に得度を受け、同二十一年神戸の長楽寺の大同学院で小中の教育を受けられて、その後は各地の禅宗寺院と道場を巡錫(じゅんしゃく)して禅の教学を身につけられました。同三十一年、奈良の法隆寺観学院において修学、各地の古老師を訪ね、大正五年四十六歳のとき、本山万福寺禅堂の師家に就任しました。また、同十四年には中国の仏教遺跡山西省の五台山も巡拝、中国上海の東亜僧園へ春秋二回の禅会にも参禅しました。こうしたことが認められて玉田和尚は、昭和十四年には、宇治の黄檗宗萬福寺(まんぷくじ)の第四十九代管長の座に就任しました。
 昭和二十五年、菰野の黄檗宗智福寺が戦後荒廃していることを知り、この貧乏寺の復興を誓われて住職となりました。まず第一番に平和祈念の願いを立て、寺内に「三重県下全英霊合祀十三塔」を建立されました。供養塔の中に県下の英霊の名前を和紙に、玉田老師自らの筆で記して銅製の箱に納めて、平和と復興を祈願されました。
 この三重県下の慰霊塔建立のことを、風の便りで知られた梅戸の自治会、遺族会では、中菰野の智福寺を訪ねられて、碑の表の揮毫(きごう)を依頼されました。このとき玉田老師は八十六歳でしたが、快く引き受けられました。慰霊碑には、老師が戦後願われた平和への思いが込められ「平和之礎」と記されました。この後、昭和三十六年四月十五日玉田老師は示寂、九十一歳でありました。
 なお梅戸の郷社、土生神社のご祭神は土生大明神、埴安姫命(はにやすひめのみこと)、天湯河板挙命(あめのゆかたなのみこと)となっています。梅戸は古くは神宮の神領地で「梅戸御厨三石」と神宮文書に記されています。また、中世の梅戸城主、梅戸左衛門尉高実の崇敬を受けていたようであります。
 土生神社の表参道には百二十段もある高い石段があります。それを昇り詰めた所にある神明燈籠(とうろう)は、明治七年の奉納で、参道の右左に三つ石があります。この三つ石は自然の川原石で、釣鐘のような形をしています。元は梅戸、南金井(みなみかない)、門前(もんぜん)の村にあったもので、日照りが続いて水不足になると、この石をゆすると恵みの雨を頂けるといわれ、なぜると瘧(おこり)の震えも治るといわれる不思議な石でありました。