第393回
 広報こものトップ >> 歴史こばなし


  分木の一本松
文 郷土史家 佐々木 一
分木の一本松
分木の一本松

 大正二年(一九一三)に湯の山温泉の観光開発と菰野村発展のために四日市、菰野間に軽便鉄道が開通しました。それに続いて湯の山街道も拡幅、改修が進められ、東町商店街から旧菰野城の藩内駒寄せ道路を利用して、城の土居を破り振子川に橋を架け、それより真西へ向かう道が新たに設けられました。軽便鉄道の中菰野駅前からは、地蔵集落前を西へと進み、道路幅三メートルで鉄道の湯の山駅まで大正六年の三月に出来上がりました。この道路建設には、菰野村の在郷軍人や青年団による多くの労力奉仕がありました。
 昭和の初め頃、現在の近鉄大羽根園駅付近は茶畑と田んぼが広がり、湯の山街道沿いの北側には二反ほどの地蔵山神跡の境内森が残っていました。この山神跡から西へ四、五枚の田んぼがあって、その西端の高堤の上に一本の黒松が枝を四方に広げて亭々と聳(そび)え立っていました。この松の周辺は字名が「分木(ぶぎ)」と呼ばれていたことから、この松も「分木の一本松」と名づけられていました。
 改修後の湯の山街道、そして軽便鉄道は、この一本松の南側の五十メートルほどの手の届く様な近い所を通っていたことから、分木の一本松は沿線の名物松となりました。軽便鉄道も湯の山街道の拡幅もなかった明治の初め頃、湯の山温泉へ湯治のために訪れる人々は、四日市や菰野から馬や人力車、山駕籠(かご)を雇って乗ってくるお客が多く、中でも駕籠担ぎ屋はここで駕籠を降ろして、名物松を眺めて一服するのが慣いとなっていました。
また中菰野、東菰野村の人々も炭を焼き、材木を伐り、柴を刈るため、西へ向いましたが、この名物松の下まで来て松の根元を流れる北坪用水の川の水で口を濯ぎ、手を洗って元気を出し、西の山へと登ったものでした。
 この松がある村は地蔵といい、中菰野村が開墾を進め、延宝二年(一六七四)に本村から出て新田を起こしてできた村です。菰野藩三世雄豊公は延宝の頃に新田開発を奨励して、すでに茶屋の上、片倉新田は出来上がり、その次の開墾地となったのが、この地蔵です。
 この「分木の一本松」の下で田が五畝(せ)ほどあり、そこは「新蔵屋敷」とよばれていました。田の隅に古井戸があって、大きな口を開け、青い苔が口についていました。新蔵というのは、この開発地へ移り住み田を耕していた人の名です。新蔵は開墾に成功したので、その印にこの黒松を植えたものであります。新蔵はこの分木の屋敷から地蔵集落の中へ移り住みましたが、松はそこで大きく育ちました。松を植えた新蔵は宝永五年(一七〇三)七十歳で死没しております。
 その後、時は移り明治、大正、昭和となって太平洋戦争も終わり、ようやく平和が戻った昭和二十三年、新蔵から数えて九代目の子孫の代になっていました。終戦後の食料増産で耕地の中の作物の影になる樹木の伐採が叫ばれて、田んぼの中のこの名物松もその障害木と目されて、第一番に伐採されることになりました。
 このとき名物松の樹幹は三・五尺、樹高は六間(約十一メートル)ありました。名物松の伐採にあたっては大木の根切り名人の木挽作に依頼して、樹齢約二百六十八年の長寿の命が絶たれました。この松は一の枝まで三間近くあって、鴨居、梁などの良材に生まれ変わりました。