第394回
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  正眼寺の山門
文 郷土史家 佐々木 一
分木の一本松
正眼寺の山門。写真は昭和四十五年に撮影されたものですが、この山門は昭和四十七年に取り壊してしまい現存していません。

 西菰野の正眼寺は、京都から菰野藩へ養子に迎えられて二世土方雄高(ひじかたかつたか)の跡目を嗣いだ三世雄豊が再興したお寺です。二世雄高は藩祖雄氏(かつうじ)と織田信長の孫にあたる玉雄院(ぎょくゆういん)の間に生まれました。雄高は二人の間のたった一人の子でしたが、生来病身でした。母の玉雄院はその回復を願い、石清水八幡宮を勧請して祈願を行い、また涅槃図(ねはんず)を京都で作成して正眼寺の本尊薬師如来に寄進しました。しかし雄高の病気は快方に向かわず、その治世十六年間で四十歳の若さで亡くなりました。

 雄高が家督を継いだ後、京都に隠棲していた雄氏には氏久(うじひさ)という子があり、その氏久には三人の男子がありました。玉雄院は京都の妾腹の子であっても雄氏の孫であるので、自身が京都へ出向いて人物を実見しました。玉雄院は雄豊を中々の人物と気に入り、桑原家老の意も受け入れず、三代目の藩主を雄豊と決めました。玉雄院は延宝七年(一六七九)九十二歳で亡くなりましたが、雄豊を京から迎えて二十八年間、その治世を陰で見守っていました。この雄豊はなんと五十四年の長きにわたり菰野藩を治め、その基礎を固めました。

 さて本題の正眼寺は、雄豊の伯父にあたる土方作十郎の為に再建しました。それは明暦三年(一六五七)で、創立当初は見性寺の末寺として、開基の峯室見公和尚も本寺から迎えました。この寺はもと片倉の上の寺坂にあって、国見岳の山腹にあった天台宗の冠峰山三嶽寺の末寺でした。永禄十一年(一五六八)に信長の北伊勢進行時に焼き討ちに遭い、滅亡しました。そのことを事前に察知した西菰野の里人が、寺坂の仏堂から本尊薬師三尊像を密かに搬出して農家の藁の中に埋めて匿っていました。そのことが雄豊の耳に入り、この如来を本尊にして正眼寺が西菰野に再建されました。

 正眼寺の山号額は、「明暦四年(一六五八)黄檗独立(おうばくどくりゅう)書」とあります。この時の住持は租繁和尚で、黄檗独立とは中国から隠元(いんげん)禅師に随従した独立という名の渡来僧です。独立は、岩国の錦帯橋の架橋のときに藩主吉川広嘉(きっかわひろよし)の諮問を受けて技術的な指導助言をした黄檗宗の人でした。

 写真の山門は、明和四年(一七六七)四月に建立されました。これには西菰野村の里人が菰野領下十六カ村の村々を巡り、資金の浄財を願って寒念仏を行い、三年間その行を勤めました。その労を知った七世の雄年(かつとし)は、藩の年寄役高槻五兵衛光督を山門建立奉行に命じて建設を成功させました。山門の姿、形は本寺の見性寺の山門と類似のものでしたが、鐘は昭和十八年に軍の要請によって供出されました。

 山門の右側の弁天堂は、菰野城中にあった始祖雄久(かつひさ)の持仏弁財天を正眼寺へ移したもので、弁天池の水は、奥の大溜の水を引き、この池へ引き入れ、その先は金渓川の川底を樋管で通し、字神田垣内の用水となっていました。

 正眼寺の本尊は宮殿(厨子)に安置されていますが、元禄九年(一六九六)に本堂建立後に作られました。その大工の名として河原田村森井六右衛門安之と本堂に記されています。この頃、平安末期作と伝わる本尊は、京都の仏師佐々木良安の手で修復を受けています。平成六年(一九九四)四月十二日から七月二十七日まで愛知県立芸術大学山崎隆之教授の研究室において本尊の解体修理が行われました。元禄の修理の際に本尊の顔に漆の塗布がされたため、真っ黒の漆を削り落として、生(うぶ)の檜の真っ白の顔に再現されました。また頭部の螺髪(らはつ)の深い彫りが美しく浮かび上がり、手が補修されて平安仏師の手の跡がはっきりと現れました。この本尊は平成八年三月、県有形文化財の指定を受けています。