第395回
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  雲母峰とキララ石
文 郷土史家 佐々木 一
東禅寺
現在、菰野小学校体育館南にある大きな石は、昭和九年、湯の山の栃谷から牛に引かれて、小学校まで運びだされた花崗岩です。

 今年は一月十九日から九州の宮崎県と鹿児島県の県境にある霧島火山の中の新燃(しんもえ)岳(一四二一メートル)が爆発性の火山性の火山活動を起こし、一カ月以上たっても間歇(かんけつ)的な活動をしているようであります。

 私たちが住む菰野盆地や伊勢平野も、現在は土地が動いたりしないものと安心して生活していますが、太古の昔には様々な土地の変動があり、現在の地形が誕生しています。地形や地質の専門的なことは抜きにして大雑把な話で申し上げますと、この辺りは、第一に瀬戸内海ができて、その浅い海が沈み、その次に傾動運動が起こり、海が陸地になりました。さらに現在の伊勢平野と濃尾平野が東海湖という大きな淡水湖になり、鈴鹿山地の隆起がはじまって東海湖がだんだん狭くなりました。菰野盆地は北に小島の台地、南に西菰野台地ができ、それが高くなって東海湖もなくなり、西の鈴鹿山地から三滝川、朝明川が山を削って荒い石や土砂が麓に堆積しました。茶屋の上、江野、千草、杉谷、切畑の扇状地堆積層はその土砂によって作られ、細かい土砂が菰野の平野部の豊かな土壌を生み出したものと思われます。

 さて麓から菰野の山を眺めると、南から雲母(きらら)峰、蛇不老(じゃぶろう)山、菰野富士、尾高山、福王山と、鈴鹿山脈の前に、頭を丸め行儀よく坐っています。これらの山は古生代の地層で構成されていて、同様の山は藤原岳、養老山地へと続いています。鈴鹿山脈と養老山地の東側が急な傾きになっているのは、東から大きな圧力が加わっていたからだそうです。

 これらの山の西、御在所山を中心に火山活動が起こり、高温の溶岩は先に隆起した雲母峰に覆い被さり、千メートル級の鈴鹿花崗(かこう)岩帯が生まれた様であります。そして杉谷、田光、田口方面では地層に火山灰が見られ、それは遠く阿蘇山や浅間山の火山灰が層を成しているようです。

 鈴鹿山脈山麓には一志断層という断層が南北に走っています。この断層は南側からの圧力が強くて、鈴鹿山脈は西側の滋賀県側になだらかな山地が続き、東側は急な傾きとなって伊勢平野となっています。この活断層は明治三十六年(一九〇三)の七月六日に、マグニチュード五・七の地震を発生させたそうです。この地震の中心は菰野の金谷(かんたに)あたりといわれています。

 菰野町域の南端の雲母峰は古生代の地層の山で、岩石の中には石灰岩が含まれています。いなべ市の治田(はった)山や藤原岳ほど良質ではありませんが、明治の初め頃にはこの石灰岩を用いて肥料の石灰が金谷で焼成されていました。雲母峰では背部の鎌ヶ岳の火山活動の溶岩が石灰岩の割れ目に入って変成、岩化しました。この石はキララ石、別名ミズアゲ石といい、黒色を帯びて硬く銘石に数えられていました。

 その良質なキララ石が明治の初め、金谷の山中で発見されました。重量が1トン以上あって荷車では運び出せず、修羅を作り、その上にキララ石を載せて山道に青竹を並べ置き、その上を滑らして西菰野の郷倉地まで運び出しました。そこには湯の峰学校が開校して生徒の参考物として置かれていました。明治三十年、菰野小学校が陣屋跡の現在地に移ってきたときに、キララ石は湯の峰から本校の玄関先へ移されました。その後昭和四十二年(一九六七)郷土パノラマ大模型と岩石園の設定の際、このキララ石が中心に据えられました。岩石園は体育館建設時になくなりましたが、キララ石は鈴鹿山脈で火山活動があったことを子どもたちに伝えていました。