第396回
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  頭蟹大将のはなし
文 郷土史家 佐々木 一
大字菰野字頭蟹
大字菰野字頭蟹は菰野西保育園の西あたりです。ほ場整備事業によって、すっかり頭蟹大将が住んでいた頃と様子が変わっています。

 金渓川(かんたにがわ)の最上流の金谷(かんたに)という雲母(きらら)山の谷合いの四、五軒に、落武者が隠れ住んでおりました。寛文十年(一六七〇)に菰野藩の三世雄豊(かつとよ)が茶屋の上の高原を新田開発すると触れを出すと、この金谷に居住の者たちも茶屋の上の開発に参画しました。 その次に片倉と地蔵も開発の令が出て、菰野領内の次男、三男坊も当座の小遣い銭と米一俵を藩からもらい、荒地の樹を伐採し、その根を起こして畑や田に開発して行きました。茶屋の上は本村の西菰野や宿野から、片倉は畑の谷の狭い水田作りを行っていた村人が出て、広い明るい東の平らなところを開墾しました。片や地蔵新田は本村の中菰野や片倉の奥の畑の谷や金谷に隠れ住んでいた人が出てきて、開発に加わりました。 そして茶屋の上新田の下の、丘陵の切り通しの堂山(どうがやま)や荒晴(あらはれ)にも住む人があって、その中に「頭蟹(ずがに)大将」と村人が呼ぶ男が一人おりました。椋の古木の下で小さな庵を結び、独り身の侘び住まいで自分のことは多く語りませんでしたが、静かで穏やかな人柄で何を聞いても答え教えてくれるので、男が住む字名の頭蟹から「頭蟹大将」の異名で呼ばれていました。

 金谷山は土に石灰分を含んでいることから山草も黒々とよく肥えて、見るからに畑の緑肥に最適な草が生えていました。安永四年(一七七五)の夏のこと、水沢村はその頃からすでに茶を作っていて、茶畑の畝間の肥料に使うため、朝早くから金谷山へ来て草を刈り、水沢へと持っていってしまいました。このことに業を湧かした西菰野の村人は、水沢の連中が草を皆負って逃げるのを捕まえて詰問しましたが、草を放りだして逃げます。しかしすぐに別の者が再びやってくるため、一向に埒があきませんでした。少しの草刈りなら隣村のことなので、大目に見ていられますが、向こうは懲りずにせっせと通ってきて、いばらで道を防いでもお構いなしです。

 そこで、件(くだん)の「頭蟹大将」のところへ困っていることを相談に行ったら、大将はあらたまって「それは個人のことではない。村と村との公のこと。西菰野村の庄屋、肝煎に願い出て菰野城の代官所へ訴え、なおも隣の小山村、山田村の庄屋に頼んで水沢村庄屋へ掛け合ってもらえ。そうすれば水沢の百姓も無礼な振る舞いはしないだろう」と教えてくれました。

 村人は頭蟹大将の助言に従い代官所へ訴えたことで、西菰野村と水沢村との公の争論になりました。しかし菰野の代官所では、どちらかの肩を持って話をせず「恐れながら」と江戸の評定所での裁判沙汰となりました。西菰野側にとっては、水沢村は隣村で村人同士が婚姻している関係もあることから訴訟沙汰になるのは避けたかったのですが、相手の村の勢いは強く、止む無く江戸へと出立して公裁を受けることになりました。

 その結果、村境を越えて草刈りを行ったことや、刃傷沙汰(にんじょうざた)寸前の百姓の所作などを踏まえ、評定所の裁決は西菰野村の勝訴になりました。しかし、この裁定の結果を知った水沢村の百姓は、金谷の草は刈れずよく肥えた緑肥を得られないとのことで、なんと西菰野村と水沢村の村境になっている境の松を一本だけ残して全部鋸で引き伐ってしましました。これはお殿様の禁制の松であることから、すぐさまお殿様から水沢村の百姓へ、水不足で困っている潤田村の池堀を仰せ付けになりました。今でもその池は水沢池の名で残っています。