第398回
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  飛塚古墳
文 郷土史家 佐々木 一
写真中央が昭和35年12月頃の飛塚古墳
写真中央が昭和35年12月頃の飛塚古墳

 広々と広がる鵜川原の田園の中に、お盆を伏せたような美しい姿の円墳がありました。これが飛塚(とびつか)古墳とよばれていた古墳の昔の姿でした。

 昔は飛塚の上に一本の松の木が生えていましたが、水田の日陰になると言われて明治の初め頃に伐採されて墳丘(ふんきゅう)の上は丈の短い笹の茂るだけになりました。

 江戸時代末期頃に巡見使が村々の巡見に来て、その帰りに巡見使へ渡す「大強原村勢図」には、遠見塚と描かれています。それは戦国時代に敵が村へ攻めてきた時に、塚の上で狼煙(のろし)を上げて合図したからであるようです。

 この飛塚に葬った人のことについては、正確なことは分かりませんが、古墳時代後期頃に鵜川原地方の農村を治めていた県主(あがたぬし)の墓であろうと伝えられています。塚の東の下鵜川原村には県御園(あがたみその)があったとも伝えられています。また鵜川原神社と北側の丘陵地との間にも小さな狐塚とよぶ塚がありました。さらにその東方、今の諏訪神田あたりの絵地図に丸印がありますので、これも狐塚と関連の塚跡と思われます。

 こうして、米作をする水田の中に点々と古墳があることは珍しいことです。このことから海蔵川、竹谷川の水利の便のあることと、その水利を巧みに利用していたことが推測できます。米作を行い葦水田郷(あしみだごう)などの良き郷の生まれたことがその証です。

 米作を知らない縄文時代の人々は田口、福王の扇状地にそれから南の田光、杉谷高原、江野から南の茶屋の上高原のドングリ、ヤマグリなどの豊富になる山の幸を採り、鳥、けだものを捕まえての原始生活でした。米を作ることを覚えて水について低い土地へ移るようになってから、作物を作ることでだんだんに生活の改善が進み、鵜川原のように豊かな土地を開いて、飛塚のような古墳を作るようになったと思われます。山に残った人たちも、今までの木の実から食事が米と野菜になり、栄養価のある食事で、体も背が伸びました。土器を作り、それで煮炊きをするようになりました。また、平地に住み農業を営む人達と同じように、山の中にたくさんの人の群集墳を作り残しています。

 古墳の入り口は南の太陽の光が入る方向に設けられております。菰野でも団子を重ねた様なまんまるの円墳が、田光、杉谷、千草あたりにたくさん作られていて、その土地でとれた石を積み重ねて築造されています。

中国の葬儀の記録から
 日本の人が亡くなり、葬儀埋葬を行う方法は仏教的なものが多いですが、日本に様々な文化を伝えた中国の昭和初め頃の農民の葬儀は長い寝棺を使いました。この棺は、屋敷木を伐採すると早くから棺屋へ預けて、よく乾燥させて一面に漆を塗り棺の蓋(ふた)に金文字で死者の法名を大きく書きました。葬場までは白い旗を何本も会葬者が持ち、行列は村の中の廟まで行きました。廟の前で葬儀を行い、式が済むと死者の家の田の隅に穴を掘り埋葬です。田のない場合は近くの大きな川州に穴を掘りそこへ葬ります。海に近いところは、浜州に埋めていました。

雑木に覆われた現在の飛塚古墳
雑木に覆われた現在の飛塚古墳

日本でも昔は川の三角州や浜辺の浜州に埋める慣習があったようです。