第400回
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  村の水車小屋
文 郷土史家 佐々木 一

 菰野藩の五世雄房(かつふさ)公は、享保十一年(1726)郡奉行から申請のあった西菰野村と申し出のあった森村、吉沢村に水車の新設を許されました。それからおよそ140年後に書かれた文久二年(1862)の領内大絵図には、金渓(かんたに)川筋の南瀬古に二基と庄部筋に二基の水車が描かれております。

 そして、その頃の領下の村々では、この水車についての「噂ばなし」として「村に水車が増えると米を白米にできて旨いので、沢山食べてしまい、お米一升買いが多くなる。それを防ぐために、お上は水車の新設をお許しにならないのだ」と話しておりました。

 話は遡り、三代目のお殿様雄豊(かつとよ)公は、寛文十年(1670)に茶屋の上、片倉新田の開墾をはじめられた。続いて延宝二年(1674)に地蔵新田の開墾を企てなさった。お殿様は入植希望者には巡礼道から東の荒地を一反ずつ縄張りして与え、屋敷を設けることとし、宅地から出た石を湯の山道の道ぐろに積み上げることをお許しになり、当座の飯米一俵も下さいました。巡礼道から西の山神の森から分木(ぶぎ)は低みで三滝川から水を引いて来て水田にして、なお集落の真ん中に水路を通し、飲料水や生活用水に当てました。さらに近くを流れる三滝川の大水のときに備えて、堤をつくりました。そして、堤が最も弱く、大雨のときに決壊しそうな場所である八兵衛屋敷に双体地蔵のほこらを設けました。それが現在の地蔵集落の名の由来です。また、こうして集落ができてくると京都から愛宕(あたご)明神を勧請して来て新田村の守り神としました。

 片倉新田への入植者は奥の畑の谷や金谷の奥に隠れ住む近江からの落人らにも声をかけ、木を伐採し、根を掘り、石を出す仕事を一緒に行い、住む家を建て、米を作る田んぼと毎日食べる野菜を作る畑の造成など大切な仕事を助け合って仕上げました。

昭和33年撮影した地蔵の水車小屋
昭和33年撮影した地蔵の水車小屋

 その後、先の地蔵集落は、お米の俵を庭に積み上げるほどに豊かになってきました。荒地を開墾しはじめてから、およそ100年たった安永九年(1780)の頃に米作りのできる農家が14戸ほどになりました。この頃、三滝川を越えた北の音羽村に使わなくなった水車ができたと聞き、地蔵集落の主だった者3人が音羽村と交渉して、この水車を譲り受ける話ができました。水車小屋から水車をはじめ、石臼などの使える道具を解体して運んできて、地蔵の集落の中心で用水路近くに20坪ほどの水車屋敷を求めて、設置しました。水車の設置はまず位置を決め、水車を回転させるための迂回水路を設け、水車の吐き出し水路も勘考します。そして米つきをする機具の据え付け場を先に設け、それらの機具を定めの位置に据え付けた上で水車を据え付けて、最後に水車小屋を建てるという方法を採ったようです。この水車小屋は石屋、車大工、家大工、左官、石臼屋などの多くの専門の職人を頼み、春の彼岸から秋の彼岸までの突貫工事で完成させました。工事が完成すると中菰野村の庄屋、肝煎(きもいり)に届けて、庄屋が取り付いでお城の代官へ届け出て、完成の検分を受けました。それから、川上から二人ずつの年番を定め、木札に名前を書き、秋の彼岸に年番の家を宿に水祭りを行い、会食をしながら水車の維持管理費用の報告をして、次の年番へ申し送りを行いました。水車は集落のみんなで利用し、札順に交代して籾摺(うすずり)りを行いました。すりあげた米は家まで運び、精選して俵に入れました。