第401回
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  馬の治療柵
文 郷土史家 佐々木 一

 菰野あたりの農家では飼う役畜は、但馬(たじま)産の和牛が大半でしたが、明治になって日清、日露の戦役の頃から軍隊で軍馬が広く使役されるようになり、乗馬をはじめ、砲車、弾薬、食糧などを引くため多くを徴用しました。

 軍馬は北海道産、南部産が体も大きく頑丈でした。

 菰野でも軍隊で馬に慣れ親しんだ人は除隊してからも、山から石や材木を運ぶために馬を飼うようになり、特に田光や千草で馬を飼う農家も増えました。一時期若者連中の中で朝夕、馬にまたがり、颯爽(さっそう)と田回りに行くことが流行したこともありました。

 昔から但馬の牛に慣れ親しんだ農家でも、息子の言うことを聞いて庭に馬小屋を建て、馬は養老山地の向こう側の美濃太田の博労へ借り馬をしに行きました。

 菰野から美濃太田まで八里の距離があり、暗いうちに家を出て夜が開けるころ二の瀬峠を越えていきました。太田に二軒ある博労の店で借り賃を払って、馬の首に店の焼き判をつけてもらい、手綱を引いて馬の先になって峠を越えて、急ぎ巡見街道を帰ってきました。

昭和36年撮影の馬耕
昭和36年撮影の馬耕

 借りた馬は木曽駒で、木曽福島から木曽川を渡り、御嶽山の麓、開田高原で生まれた駒が開田高原の青草を食べて育ち、木曽の奥山で官材の檜の原木を力一杯引き出して鍛えられた力持ちでしたので菰野の平坦地で働くくらい、なんでもないことでした。

 木曽駒は南部駒のことを思うと背が低く、体毛が長い特徴がありました。性質は温順でよく人に慣れました。

 厩(うまや)は大きさが九尺×二間ほどで土台は栗か椎を使い柱には杉を使いました。壁をつけ囲いは杉や松の板を張り、出入り口は駒の背の高さに合わせました。そして、床は馬の尿をしみ込み易くするため二尺ほど掘って、大河の川砂を敷き、敷き藁は清潔に保つよう晴天の日に取替えました。

 馬はしゃべれないので、飼い主が朝夕に厩をのぞき、馬の顔を見て、さらに厩から出して、まず全体像を点検し、腫れや瘡(きず)の有無を確認し、顔から、目、鼻、口、耳の血管、舌を見て、胸、胴、大小の排泄口とその色を点検しました。特に馬の蹄の点検は大切で入念に行いました。

昭和35年に撮影した馬の治療柵
昭和35年に撮影した馬の治療柵

 このように馬の日ごろの健康状態に気を付けていましたが、それでも馬が病気になったときは、菰野には宿野に牛馬の検診、治療の術に優れた博労が二人いてその人たちに見てもらいました。また並木(菰野と宿野、福村の境のあたり)には軍隊で蹄鉄師の免許を得て、蹄鉄師と馬医者を兼ねた人もいました。写真の馬の治療柵は、血取り場と呼ばれた場所のようで、村々に設けられており、馬の病気の検診や治療をする場でありました。血取り場の呼び名は馬の食欲が落ちたときなどに、針を刺して溜まった血を抜いたことから来ているようです。