第403回
 広報こものトップ >> 歴史こばなし


  石工久五郎とお母さん
文 郷土史家 佐々木 一
七福神の像
七福神の像

 矢倉久五郎は明治十七年千草村奥郷の父久蔵、母まつの二男に生まれました。石屋の仕事を兄の久三郎について習いました。久五郎も二十八歳となりどうやら石屋の仕事も一人前になりますと妻を迎えて、奥郷の北、朝明川北岸の草里野に新居を構えて住むことになりました。草里野は名のとおり千草村の草刈場で明治になると開墾地となり、桑を植え、巡見街道沿いに村の稚蚕共同飼育場が建てられました。明治二十三年に初めて朝明川の本流に橋が架けられ巡見街道の往来が便利となりました。久五郎の生まれた千草村は朝明石と呼ばれる花崗岩の産地であり、昔から石棺、燈籠(とうろう)、墓石、引き臼の産地として近江まで名が知られていました。久五郎は草里野へ移ってきて松の翠(みどり)、岸の白砂の純白に魅せられて、石鑿(みの)の腕も上がり、特に細工ものに優れて近くの福王神社の参道の道しるべ石、七福神などの石像を手掛けました。昭和二年に鵜川原村の臨済宗の禅林寺が境内に鐘楼の再建を企画、その基壇の石積み工事の依頼を受けて、新しくケンチ積の工法で完成させました。そしてその北向きの段石に七福神の中の布袋(ほてい)和尚像の尊像を刻みました。ここでも真四角なケンチ積の中に丸い布袋さんを差し入れる巧みの技を見せています。こうして鑿を研ぎ硬い石相手の生業に励んでいた久五郎は四十五歳の働き盛りになったとき、仕事のときにでる石の粉を長い間口から肺へと吸い込み続けてきたためか胸を患い病に伏すようになりました。そして重い石鎚や鑿を持つことを禁じられたので、それらを軽いコテや竹のヘラに持ち替えて、今度は土を練り、人形を作りはじめました。それは木と割った竹に縄を編みおおよその骨組みを作り、それに紙を煮て糊状にしたものと壁土をこねて、塗りつけ竹ベラで仕上げ、和紙を貼りつけ絵具で色をつけるという方法です。始めはなかなか思うようにできず、何度も崩しては作りなおしていたそうです。

地蔵様の像(上)と久五郎の母の像(下)
地蔵様の像(上)と久五郎の母の像(下)

こうしてひたすら人形作りに打ち込んでおりましたが、胸の患いは重くなり遂に昭和五年の十一月、四十八歳で亡くなりました。久五郎が精根込めて作り残した作品は、七福神、それに村の辻に立っておられた地蔵菩薩で右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝玉を持っておられます。そして最後に久五郎のお母さんのまつの姿像です。手織りの普段着を身につけその上に黒の繻子(じゅず)の羽織をはおらせて菰野あたりの田舎の老婦人の姿です。目元は優しく、口元は今にも「久五郎や」と呼びかけそうな按配です。この九体の像のその後ですが、時の町長藤川四郎氏が、これら九体の塑像が残されていることを知り「この九体の手作りの像を拝借してこい」と命じられて、子息の矢倉弘氏に願い、郷土資料館で一年間公開展示させて頂いたことがありました。この度、矢倉ミチ子氏から九体の塑像の保存の申し出を受け、諏訪区の薬師堂の内陣に薬師如来像と共に安置させて頂くことになりました。石工久五郎の手作りの九体の置きみやげ「菰野のお母さん」のなんと優しくなつかしいお顔にお会いしてみてください。