第404回
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  お母さんは山の神
文 郷土史家 佐々木 一

明治の終わり頃までは、十二月七日は山の神のまつりの日でありました。それぞれの集落では山の神の森があって、その森は黒々と樹木が茂っていました。その中心には巨木があってその木が山の神の宿る依代(よりしろ)と言われておりました。山の神のまつりでは、この象徴の巨木の周りの草を刈り境内を美しく掃除してまつりの準備としました。七日当 日の朝は山の神の年番の頭の家に集落の子ども、老人、婦人、宮守らが集ってきました。このときばかりはまずは子ども、老人、婦人らが上座へ座り一同の前で年番の頭が「あらためまして、山の神さんに春から里の田を守ってもらったが、今日から山へ登り炭焼、木挽(こびき)、柴刈の仕事をする人々を見守ってくださるよう精一杯の祭をいたします。

今日に限ってはお母さんの包丁、鍋釜は総休みでその代わりに宮守衆と男衆が下で餅をつき、味ご飯つくりに精を出させてもらいます」と口上を述べ、この一言でまつりの火ぶたが切られます。山の神は元から女神、伊勢神宮も多賀大社も、菰野町切畑の伎留太(さるた)神社も古いお宮は女神が祭神であります。町内の山の神は大木の茂る山の中に祀(まつ)られていた自然石でその石に「山神」と彫られていました。

朝明渓谷入口の山の神の碑
朝明渓谷入口の山の神の碑

明治四十五年頃の神仏分離、一村一社への合祀令で神社は合祀されましたが、山の神の石は村々の鎮守の森に残されています。山の神の依代が巨木であることは先に書きましたが、樹木は樹齢が重なると枯れる心配があり、江戸中期頃に千草村で大きな自然石に山神と彫り付けられた石が祀られたのをはじまりとして、自然石が依代となっていきました。こうして村々に石の山神碑が生まれました。現在では山神の祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)と言われてその本社の大楠は千年の樹齢を数えているそうです。

さて、我々庶民の家の中心お母さんを「山の神」の別称で呼ぶ場合もありますが、これは蔑称ではなく、田畑、山を守る自然神の山神の名を借りて尊び、親しみを込めて「うちの山の神さん」と呼んでいたのです。その証拠に一年に一度の十二月七日の山の神のまつりの日に、日ごろの一切の家事の手を休めて座敷の一番上の座へ上がってもらい、山の神になってもらうのであります。そして一日を寛いでもらったのでした。

なお山の麓の切畑、田口、千草、茶屋の上の集落では、お母さんが自分の夫、お父さんを「さん」づけで呼ばず、名前だけで呼び捨てにする風がありました。これは男と一緒に山へ登り、木を切り、谷を飛んで渡って危険な仕事を夫と一心同体になって行い、声を上げて呼び合わねばなりません。「さん」をつける暇がありません。これが家へ帰っても山の仕事と同じこと、声は高くなり夫婦喧嘩ではないかと聞こえるほどでしたが、よく聞けば言葉は荒いがいかにも緊密な会話でありました。

さてさて昔は峠を越えて近江側の奥山まで炭材の豊かな山林を求めて入り込み、そこに山小屋を建て泊り込みで炭焼仕事をしましたが、その小屋の中に小さな石を三つ組み、この間で柴を燃やしてご飯を炊きました。まずご飯一杯を土師器(はじき)に盛って山の神さんにと言い、供えたものでした。お風呂も五右衛門風呂を運んで小屋のそばに据えました。母さんが入るときなどはお父が「一くべ焚こかいなあ」と追い炊きをしてくれて、風呂の中のお母さんは満点星を眺めながらの湯浴(ゆあ)みでした。

今日では十二月七日の山の神のまつりも忘れてしまい「杓文字(しゃもじ)」「包丁」総休みの日もなくなってしまいましたが、お母さんを山の神と崇めた気持ちを忘れず、お母さんを大切にすることは大事なことです。