第405回
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  下村の這い松
文 郷土史家 佐々木 一

鵜川原地区の下村の東はずれ、四日市市赤水との境四日市街道沿いに、昔は「這い松」と村人の呼ぶ名物松がありました。この松の下でお嫁に行く人、花嫁を迎える人の境印になっていました。「這い松」は街道の南側に根元があって、幹が自然に北向きに匍匐していましたので、道を通る人々は「ごめんね。ちょっと通してくださいなあ」と声をかけて通ったものでした。

下村の共同墓地に移された石碑
下村の共同墓地に移された石碑

江戸の末期頃名古屋城の武士、横井也有や学者の天野信景、堀田方臼などが尾張の名古屋から菰野温泉へ湯治にきました。この経路は七里の渡しを船で桑名の川尻へ上陸して徒歩で大矢知、山城への八風街道を歩み、川北から海蔵川の土橋を渡って下村を通って菰野へ来るものでした。この旅を記録した紀行文の中で「下村と呼べる宿場へ着く。この村、家だちよろしく、松の西に茶屋三軒あり、餅、団子を売りこの村で昼をとる」と記しております。これは「這い松」のあった下村が西の千草から四日市への千草街道、田光からの八風街道の脇道が通る要所で近江商人と伊勢商人が行き来する商いの重要な中継地点であったためで、宿も伊勢屋、大黒屋の二軒がありました。またお寺も禅宗の禅林寺、真宗の盛願寺、大円寺、西念寺と甍をならべ、村の意気盛んなることを象徴しておりました。

中でも盛願寺は員弁郡治田にあった銀山が衰退したために、この下村を選び移り来た寺で、西念寺はその弟が起した寺であります。なお、禅林寺は千種氏の菩提寺で中世にこの下村に千種氏が城館を構え、北勢の旗頭として四方に勢威を利かせていました。平城構えの城屋敷でしたので守るに弱く、天然の要害の千草の山城へ移りました。その城跡には樫の大木が茂り、その森に仏法像という野鳥が巣をかけ、昭和八年にNHKがその鳴き声を録音に来たこともあります。

ここで話を下村の地に戻すと海蔵川、竹谷川の沖積地で平たく、地味肥え、古くは神宮の神領地で県主がおり、その所有の田地を佃(つくだ)と言いました。そして県主の塚が今も残るのが飛塚古墳と言われております。さらに県の宮と呼ぶ神社もありました。また海蔵川べりにあった阿弥陀寺の本尊如来像は亀山市の岩森の村寺に移り、今も大切に守られています。

原画はイメージで下村の大橋さんによるものです。
原画はイメージで下村の大橋さんによるものです。

さて「這い松」は樹齢が尽き、今はもうその優しい姿を見ることはできません。「這い松」の西、四日市街道沿いにあった石の墓碑は西側が明治十九年建立のもので、日露戦争で戦死なさった小林富吉氏の記念碑で、東のもう一基は大正五年の建立で四名の方の名が刻まれています。この二基の記念碑の文字は東坂部の浄光寺の八世住職平野法了和尚によるものであります。これらの記念碑も道端で自動車のほこりをかぶっているのは勿体ないと、今は下村の共同墓地の六地蔵さんの側へ移されております。

そして下村では大正十一年四月一日、潤田の日進堂の水谷悟が経営する舶来の乗合バスに加藤清次が人を乗せて「這い松」の脇を通り、初めて四日市駅までバスを走らせました。この名物松の美しい姿を今は見ることができませんが、下村の歴史を色々と語ってくれました。