第406回
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  寺柴つくり
文 郷土史家 佐々木 一

 昔は今のように娯楽も多くありません。お正月は一番の楽しみでした。お餅をつき、煮豆、田作、数子などの三品のお節料理を作って、年のはじめのお正月を早く済まさないよう三日、七日と呼んで祝い、正月気分を楽しんでいましたが、楽しい時が過ぎるのは早いもので、小正月の十五日が来てしまい、続いて二十日正月は、もぐら追いと言い、肥たごを逆さにしてその横腹を棒でこすって、畑の害獣のもぐらを追う仕草をしてお正月行事を終わりにします。暦では二月四日の頃になると寒が明けて、山の雪が融けはじめ、吹く風も和らぎます。この頃になると村の寺の門前には札が立てられ、二月十五日「寺柴収め」の札がでます。寺柴とは寺の炊事などの家事に使用する燃料のための柴のことです。「さあ、寺柴刈りにいこうか」と声がかかり、藁で編んだ「道具ふご」に鎌、鉈、鋸の柴刈り道具を忍ばせて肩引車を引いて西の山へ向かいます。どこの村でも入会山のしかも奥山に寺柴山がありました。荷車は、柴床場という荷車置き場まで引いて行き、谷の水場で柴刈り鎌と鉈の刃を研いで、山道を登ります。寺柴刈りの仲間連中で年高の者が鉈を手に良材を探して、鉈で印を付けていくと、その後から若者が根切りをしていきます。若葉持ちの赤樫、白樫は柴の中に入れて束に結い、その外側の脛に当てる部分は葉のついてないリョウブを探して根切りをします。山から出してくるのに場が悪いところでは、尾根と尾根の間の谷落としが猪や鹿の通る獣道になっていてよく滑るので、葉つきを下に敷きその上に葉のないリョウブなどなどを大束にして谷落としを藤つるで引っ張り降ろして平らな柴小場に集め、鉈で短く切り揃えて藤のつるで美しく束ね上げました。上手な柴は葉つきを中に表は葉のないリョウブで包み、風呂桶大の大きさに仕上げました。それは山の宝物のようで焚物にするには惜しい気がするほどでした。

 竹成の弥左衛門さんは寺柴つくりの名人、それは二月四日立春の前後に大日堂の「寺柴」のふれを回して、釈迦岳の下、焼合谷の入会山で寺柴作りを行い、尾高観音堂前まで柴を出してもらい一度柴束を締めて姿を正し、肩引車で大日堂まで運んできて大日堂の御拝の前へ並べました。大正から昭和の初め頃には住職不在で、大日如来にお供えの御仏飯は炊けず、村中かかって作られた寺柴は堂前にきちんと並べて、村人を寄せてせりにかけて売りさばき、その売れたお金は大日堂の入用金に当てられました。村の人たちも名人の弥左衛門老に負けずに美しい見事な柴を作り上げました。そしてこのすばらしい柴を村人も堂の費用に当てられるのならと力んで買い求めました。

原画はイメージで下村の大橋さんによるものです。
柴づくりに協力していただいた切畑の大橋正昭さんと作ってもらった柴

  一方菰野の方でも寺柴作りは立秋の頃に行われていて、御在所岳の下の一の谷付近の炭山の中で入会山の許可を得て、柴に適合するかなぎの茂る山で柴を刈りました。柴を刈る際は、鋸引きは許されず、鉈だけを使っての刈り取り技で根切りを行いました。これは鋸を使っての方法は柴木が苦しみ後の葉つきが芳しくなく、鉈でスパッと一鉈で切られる方が痛みを感ぜず、春になるとすぐに芽吹きして山の柴山の再生に良いとの考えでした。御在所一の谷の山小屋に住む覚蔵爺は寺柴刈りの名人で鉈で気合を入れて一気に断ち切った切り口が健やかで、それを藤のつるで結い上げた柴は見事なもので、まるで花のようでしたので、焚いて灰にするにはもったいないと村人は噂をしていました。覚蔵爺の柴が山から運び出されると人々は見物に行ったものでした。