第407回
 広報こものトップ >> 歴史こばなし


  垂坂の麹づくり
文 郷土史家 佐々木 一

 十一月三日明治節の頃になると田んぼは稲の姿も少なくなり、麦播(ま)きがはじまったのか、田を鋤(す)く牛の鳴き声が聞こえてくる。日も短くなり霜が降り、霰(あられ)が降る日もある。この頃になると下(しも)の垂坂(たるさか)からオジサンが自転車の後ろに箱をつけて「カラシミソ、キンザンジミソ、コウジはいらんかね」とうたいながら上ってくる。呼び声に釣られて白い箱を覗くと箱の中に真白い麹(こうじ)のほか、芥子(からし)味噌、金山寺味噌が見える。それを秤(はかり)にかけて適当に皿や鉢に入れてくれる。売り物の代金はお米を枡で計って受け取ってくれます。農家の秋の野良仕事はおむすびを作る暇も、まして家に帰って食べる暇もないほど忙しく、お弁当持ち、ご飯もお櫃(ひつ)を持参で昼は刈田の隅に藁(わら)すずみを並べて風除けにして莚(むしろ)を二枚ほど敷き、食事の場をこしらえて、おじいさんは田んぼに水を出し入れする水戸をかまどにしてお茶を沸かし、メザシの干物を焼いてくれる。そして、垂坂から売りに来た芥子味噌や金山寺味噌をおかずに藁すずみの間でお昼の団欒の場ができます。

 さて正月過ぎ寒が明けると野良仕事も少し暇ができてきますので、今度は各家庭で味噌作りが始まります。味噌作りに必要な米麹を自転車で朝明川沿いの大矢知道を走って垂坂の観音寺下の麹屋で買い求めて風呂敷に包み背中に背負い急ぎ帰って、家に待つおばあさんに渡します。ここからはおばあさんの出番です。温い日向に莚を延べてそこで出してきた常滑焼のかめを中心に周りに具の類を並べて漬け込んでいきます。まずかめの中へ麹をいれてその中へ茄子、ごぼうを漬け、それに秋に裏の林に出るしめじ類の乾茸を入れます。かめの中で発酵し米麹の持つ甘味が出て独特の味を作り出して、保存食となります。この麹味噌の味は家々で異なるかけがえのないものです。こんなおいしい麹味噌ですが、かめでおばあさん好みの具と麹がうまく醸和してくると、家族はみなかめを覗いては一箸ずつすくい出してつまみ食いをするので、「うまくなるまでになくなってしまう」とおばあさんを嘆かせました。

 ところで「麹」は「糀(こうじ)」とも記します。これはお米にコウジカビが繁殖し糀となると白い花を咲かせたようでその姿が米の花のように見えるからかもしれません。そしてこの糀はお酒をはじめ醤油、味噌をつくる素になるのです。お酒といえば、昔も今も伊勢の国は、皇大神宮の鎮座地で、この内宮、外宮に毎日朝夕お供えする神酒は伊勢国司から神酒十五缶が献納され、酒造りのもととなる麹は伊勢の三麹と言われた鈴鹿郡の玉垣(たまがき)、朝明郡の垂坂、飯野郡の中万(ちゅうま)から調達しておりました。しかし、中世戦国の世の動乱で伊勢の三麹は一時期断絶してしまいました。この頃の世の動乱ぶりを表すものとして神領地からの年貢米が土地の豪族に横取りされて神宮へ届かないので、武力を持たない内宮の長官が困り果て北勢の旗頭であった千種氏に三重郡内の豪族から年貢米を取り返して神宮へ送ってほしいという依頼状を送っています。こうして一度断絶した麹作りでしたが、江戸期の安永元年(一七七二)に麹作りの再興が許されました。このとき麹作りはお上からの許可が必要でしたが、神宮も内宮、外宮にそれぞれ長官がいて、伊勢山田に幕府の伊勢奉行、近江の信楽に天領奉行、それに麹商の村支配が亀山、菰野、桑名と各藩に分れており許認可が輻輳(ふくそう)して垂坂村を困らせたそうです。

麹作りをするおばあさん(昭和49年撮影)
麹作りをするおばあさん(昭和49年撮影)