第409回
 広報こものトップ >> 歴史こばなし


  薮中の石地蔵
文 郷土史家 佐々木 一

 江戸期の慶長五年(一六〇〇)になると菰野に一万二千石の小大名ながら菰野藩ができました。藩も三代目雄豊(かつとよ)の代になると幾多の争いも治まりました。そこで菰野藩では、温泉もあり、御在所、鎌ケ岳それに三滝川の渓谷美を持つ湯の山温泉の再興を図りました。まず廃泉となっていた温泉を修復し湯治宿も十軒ほど建てました。殊に六十万石の尾張の人々を招くため、熱田の宿場へ菰野の森の庄屋南部忠左衛門を移して本宿を営ませて熱田から七里の渡しを舟で桑名へ渡し、桑名の川港の舟着場には宿場問屋を置いて馬の準備をするなど尾張の人々が湯の山温泉へ湯治の遊来客として来る際の利便を図りました。また道中の下鵜川原には旅宿三軒、茶店二軒を設けて食事、一服の場を設けていました。菰野の城下町においても庄部のお旅所前の巡見道の辻に町年寄、肝煎役人を常駐させて道案内と治安の維持に当たらせていました。湯の山温泉への湯治道は菰野城下の川原町にある浄土宗の如来寺前の細い道を登りました。赤松やドングリ林の下を大羽根まで三滝川に沿い登ること半時、川岸に一本の赤松があって、ここで三滝の川瀬を飛び石で渡ります。川岸の小坂を登ったところが東江野です。この広い平原の向こうに菰野富士が行儀よく裾野を広げております。この広い野原は西江野、東江野の字名に分かれて、南は三滝川、北は鳥井戸川を境にして面積は百五十町歩もあります。牛馬の秣場(まぐさば)として、入会権が千草、音羽、潤田、吉沢、福村の五カ村に認められていました。それが江戸初期に桑名藩主本多忠勝が就封していた頃は、隣郷の菰野三カ村にも、牛馬の餌として鎌で野草を刈るぐらいの採草を三滝川近くでは大目に見て許していたようです。しかし本多家が姫路へ移封の後は、菰野三郷へは草を刈ることも許さず、遂には争論に発展いたしました。

 どこの国でも年貢の村高が定められ、村絵図が作図されて境界が定められると、境界に木を植え、標石を建立するようにり境界争いが生じました。

 元和七年(一六二一)八月十一日の朝のこと千草村、音羽村の人たちが弓と槍を持ち、人数を揃え、菰野村のつのりと申す所を踏み越えて、菰野村の百姓七人をあやめてしまいました。菰野村は、この争論を近くの四日市の代官へ訴えて、公儀の裁きを仰ぎました。

 さて、この江野の地を通り、尾張藩の重臣横井也有(やゆう)が、宝暦五年(一七五五)の七月、湯の山温泉に供一人を伴い湯治に来遊して旅宿橘屋へ十五日間滞在しています。也有は随筆集『鶉衣(うずらごろも)』の中で
「誰すてて扇の絵野の花つくし」と詠んでいます。

麹作りをするおばあさん(昭和49年撮影)

 菰野の里人は江野と呼んでいますが、俳人の也有は山つつじの美しさに心打たれて、まるで絵に描いたような美しさを「絵野」の呼び名に詠み替えております。この江野の地の辻に也有も見たかもしれない一体の石地蔵があります。この石地蔵は今もこの地にあり、私はこの石地蔵へ四月十五日の菰野の春祭りの日に久しぶりにお参りしました。今の石地蔵の周囲には常緑樹の「青木」が生え、青い葉に赤い実をつけています。寒い冬にはこの青木の葉がかもしかの命をつなぐ何よりの餌となります。獣のかもしかを思い、物を言わない石地蔵に思わず合掌しました。かつて陸軍演習場となっていた江野の実弾射撃や三八歩兵銃の音、戦後開拓されてさつま芋を作り、飢えをしのんだことなどが思いだされて、もの言わない地蔵さんに手を合わし、この平和の世が続くことを祈りました。