第410回
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  藩祖仏会
文 郷土史家 佐々木 一

 慶長五年(一六〇〇年)美濃国関ヶ原において徳川家康を中心とする東軍と石田三成などの西軍が戦い、東軍が大勝利を収めました。この結果、世は徳川の天下となり、家康は譜代の大名を全国各地に配置しました。土方氏は外様でしたが、関ヶ原の合戦時に縁戚に当たる加賀の前田家との折衝などに論功があったとされ、土方雄久(かつひさ)、雄氏(かつうじ)父子はそろって大名に取り立てられました。父の雄久は能登において二万石を与えられ、長男の雄氏には菰野の十六ヶ村と近江に四ヶ村の一万二千石が与えられ、菰野に陣屋を構え、ここに菰野藩が成立しました。
 初代藩主雄氏は京都に居住する期間が長く、近江の四ヶ村は東海道に面して交通の便が良く、地味は肥えて米の収穫量も多かったため、菰野の本領から米を運ぶことなく、この近江の分領地からの年貢の一部で生活を賄うことができました。
 また、菰野の本領も金谷川の黒土が沖積した福村、宿野、神田、森(神森)は地質もよく、灌漑用水も三滝川の伏流水に恵まれた大変良好な土地でした。さらに大強原と吉沢は菰野藩のお納戸と話に上るほどの肥沃な平野で、菰野藩の米の収穫の中心地でした。このように米の収穫に恵まれた土地であることと、歴代藩主の良い治世から、江戸期を通して農民一揆が起こらなかった全国的にも珍しい藩であります。

麹作りをするおばあさん(昭和49年撮影)
平成22年に行われた藩祖仏会

 領民に対する土方氏の治世を物語るエピソードとして、慶長七年菰野への入府に際して、初代藩主雄氏は、菰野三郷の村々の入会権を認められ、総山八百町部は無高、つまり年貢の取り立てはせず、そこで採れる柴や秣(まぐさ)などを領民が生活材として利用することを認めました。そして総山各所に不動尊の祠を建立することを認めました。その恩義を三郷の領民は謝し、土方雄氏の命日である六月二十八日に不動尊祭を行っています。
このとき建立された不動尊の祠は四ヶ所で
1 蒼滝(あおたき)不動尊:湯の山、東菰野村の不動さん
2 宗利(そうり)不動尊:中菰野村の不動さん
3 滝谷(たきたに)不動尊:西菰野、茶屋の上新田の不動さん
4 金谷(かんたに)不動尊: 西菰野の不動さん
として祀られています。
 また、同じ六月二十八日には菰野藩二百七十年の礎を築いた藩祖雄氏の功績を偲び、土方家の菩提寺である菰野の見性寺では恩誼(おんぎ)講の法会として、藩祖仏会が行われています。
 その藩祖仏会では、藩祖土方雄氏公の木像、その妻八重姫(玉雄院殿入信(ぎょくゆういんでんにゅうしん))の証幅、三世雄豊(かつとよ)公の画像、九世義苗(よしたね)公の画像を内陣の須弥壇(しゅみだん)に配置します。藩祖、開祖の木造の周りには、それぞれ歴代藩主、歴代住職の位牌が置かれています。
 須弥壇の配置は次のとおりです。

             
  藩祖木像   本尊   開祖木像  
             
  玉雄院殿入信
の証幅
  九世
義苗公画像
  三世
雄豊公画像
 
             
  見性寺須弥壇の配置図